ブログを開設してみた。
いまさら
ホントにいまさら
これは最近私の好きな人に見事嫌われたからでもなく
バイト先で親友ができた訳だからでもなく
また、そのバイトを辞めようと決意したわけだからでもなく
(と、ここ最近の私に起こった変化を雑にまとめてみたりする)
ただただ単純にこう思ったからである。
言葉って使ってなんぼ、じゃないと身につかねぇよね
と、ふとバイトの帰り道に思いついたからである
いくら本を読もうと、好きなアーティストの詩を聞こうと実際に自分で使ってこその言葉だと
最近改めて思うことがある。
関係ない(ホントは関係ある)が私は「僕、俺、私」と一人称がコロコロと変わり挙げ句の果てにはその一人称に合わせて人格が変化するという見事なまでの人格破綻者ぶりを発揮し、バイト先の同僚はおろか、旧知の友人たちでさえも困惑させてしまっている。
そんなジキルとハイドも食わぬような豹変っぷりを披露しながら私はこう思っていた
「一体何になりたくてこんな話し方をしているんだ」と、そして結論に至る前に自己分析的なものをしてみた。
「ぼく」の時は暗い草食系のサブカル系キレイめ男子的なイメージで(本人の外見とは遠い)
「オレ」ではハキハキ元気な陽気なテキトーお兄さん(あくまでもイメージ)
「私」では冷静沈着でクールな社会人(文字にするとなかなか痛い)
と三種三様、なかなかにイタい、しかしこれはよく考えてみると何か憧れている人物になりたいのではないのだろうかとも思う。
そんな、23にもなって考えるようなことか?と、自分でも自分に言いたくなるほどアホなことを頭の中で巡らせていると、ある人物が浮かんできた。
毛皮のマリーズ
the dresscodes
うつろ
ザ・ショック
etc…
志磨遼平である。
私は彼になりたいのでは?だから「ぼく」とか、昔なら使わなかった一人称で自分のことを表現してしまっているのじゃないのか?と思うのである。
うまくしゃべりだけでも彼に近づければと思い、柄にもなく枯れかけの花みたいなトーンの声を使い、浅い知識をひけらかしなんとか真似ようとしていることに気づいた。
しかし、それではまったくもって敬愛する志磨遼平にはなれないし、すごく浅はかな考えだったということに気がついた。
彼の知識量や教養は使ってるからこそ身に付いてるんだろうし、ましてや影響されたからといってすぐに真似できるものではないのだから、まず自分にやれることはなんだろうということを考え、そして思いついたのだ
ボキャブラリーと教養を身につける
ということを、文字に起こすと非常に頭が悪そうなのだが、これは並大抵の努力では敵わないものだということに気がついた私は、本を読み、音楽を真剣に聞き、将来のことを考えた。
そうしているうちに自分の会話におけるボキャブラリーや教養の皆無さに情けなさを覚えてる、こうしてブログを書いていても、自分の文章力の無さにほとほと愛想が尽きるばかりである。
しかし、落胆ばかりしていてもしょうがない、憧れの言葉遣いや文章力を己が物にしようとし始めたのがこのブログである、というわけでヨロシクです。
まぁー説明の長いことで(センスの無さの露呈)
もうすぐ、というかもう朝になってたのでそろそろ寝ようと思う。
それでは、おやすみなさいませ。