dear-my-lovesさんのブログ

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前回書いた日記の続編です。
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人生と幸福を考える

さて前回の日記で幸福にはA・Bの二つのパターンがある事に触れました。
今回はもう少し掘り下げて考えてみます。

人間は誰しも幸福を願うのだから人生においてこれほど切実な問題はありません。
しかしその実体については意外と無知なまま人生を過ごしているのが実情ではないでしょうか?

それゆえ欲望を満たす事のみが幸福だと錯覚してしまうのです。

幸福の追求とはある意味で欲望の充足と自己負担の軽減でもあります。
これはAの幸福そのもの。
ある状態に満足できずに、さらなる欲望を生みだします。

古来から文明の進歩はそうした欲望によってもたらされてきたといっても過言ではありません。
人間である以上、この欲望との追い掛けっこは生涯やむ事はないのです。

しかし、だとすれば人間は永久に幸福を得られない事になる…
本当にそうでしょうか?

例えば…
足に障害を持って生まれてきた人は、マラソンの幸福感は得られないのか?

女性に生まれて子供が産めない体だったら、母としての幸福感は得られないのか?

もっと言えば…
事故で足を失ったり、流産して二度と子供が産めない体になったのならば…
身の不幸を呪って生きるしかないのか?

ここでBの幸福を考えてみます。

険しい崖を登るロッククライミングという競技をご存知でしょうか?

時に命の危険もともなうこの競技の挑戦者は、険しい断崖をよじ登り、頂上をきわめる事に喜びと誇りを感じ、幸福をかみしめます。

自身の生命力、技術力、精神力が困難を喜びに変えているのです。

力も精神力もなく、技術も身につけていない人にとっては苦しみと恐怖以外の何ものでもありませんよね。(笑)

実は幸・不幸の問題もこれと同じ原理なんです。

生命力・精神力を失えばすべてが苦しみであり…
力をつければ苦難も喜びに変える事ができるのです。

先の日記で述べた通り、
Aの幸福は受動的な態度に終始した花火のように消えゆくはかない幸福。

対して、
Bの幸福は同じ欲望の充足行為とはいえ、積極的にとりくんでいる中に生命の充実感があり、勝ちとった喜びも一時の感覚ではなく命に刻まれる幸福なのです。

困難や壁にぶち当たっても、希望を見い出して克服していく過程で感じる命の充実感といえます。

幸福の次元が明らかに違いますね…

どちらも幸福ではありますが、真に人間らしい幸福はBの幸福ではないでしょうか?

しかもBの幸福は他者との関係性に基づくケースが多いのです。
自分本意でない分、喜びが倍増したりします。

結論から言うと…
命に深く刻まれる真の幸福の条件は三つあります。

第一は、あくまでも主体的に、積極的に人生の問題にとりくんでいく“姿勢”です。
客観的状況に支配され、受動的に運命を考えるのではなく、少しでも切り開いていこうとする“意欲”です。
これは生命の特質といっても過言ではありません。

例えば…
植物の芽が生えたら小さな穴を開けた箱で蓋をします。(笑)

植物は困難にぶち当たりますが、その小さな希望を見つけ出した芽は成長し、やがて穴を打ち破って大木となります。
…でも、穴を見い出せなければ枯れてしまいます。

つまり…
幸福はどこか遠くにあるのではなく、自身の命の内にあるのです。

かなたにあるものを目指して、険しい尾根に挑戦し、障害を克服しながら進む
“戦う自分”の命の躍動の中にです。

生きる“意欲”を途切らしたらそこで終わり…
この“意欲”こそ真の幸福に欠かせない条件と言えるのではないでしょうか?

第二は…
“自覚”です。
自分の命が人生でなすべき事との自覚を持たなければ、簡単に挫折してしまいます。
本当に幸せになる為に何があっても戦うんだという自覚を持つ事が必要です。

そして最後の一つは…
“英知”です。

いかに意欲に満ち、己れの自覚した道を前進していても“英知”の光を失えば暗中の模索となる。

高山を征服しようと意欲に満ちていても、登山の技術を持たなければ暴挙に過ぎないのと同じ。

人生のあらゆる苦難を克服するには、どうすれば価値的に、確実に目的を達成できるかを知らなければならない…

幸福に辿り着くには
出発点を知り…
目的を自覚し…
進む術を身につけ…
意欲を失わず…
困難を乗り越えながら…
前進を続ける!

そうした生命の中に確かな充実があり、自身を飾る幸福があるのだと思います。

もうおわかりですね!

“英知”は不幸を乗り越える力を持っています。

足を失っても、義足をつけマラソンに参加する人もいます。
子供が産めなくても、代理出産の赤ちゃんを養子にもらって育てる母もいる。

たとえ大切な家族を失ったとしても、故人をその胸中に抱いて共に人生を生きる人もいるんです。

幸福は誰かと比べるものじゃない…
あくまでも自身の胸中で、希望を見い出し、持てる力・持てる英知を振り絞って勝ちとるもの。

自分の人生ですからね!
当たり前です!
(^-^)

苦難多き時代…
こうした自身の内なる幸福に生きる人がどんどん増えていきます!
自分自身が心の底から本当にしたい事を大切にするだけの話です…。
(^-^)v

長々と読んでくださった方、ありがとうございました音符


この日記はあくまでも個人的主観です。
質問・クレーム等には一切お答えできませんのでご了承ください。

人は誰しも幸福でありたいと願い、幸福を求めて行動する…

何時でもいい…
貴方の一日を振り返ってみていただきたい。
不幸になろう!
と思った瞬間はありますか?
絶対にないはずです!

例え“死にたい!”と思った事があるとしても、それは辛い気持ちや大きな悲しみから解放されて、新しい幸福に身を委ねたいという深層心理に他ならないはず…

お腹が空いてご飯を食べる…
トイレに行く…
眠くなったら寝る…
遊びに興じて自己を満足させる…
恋愛して家庭を持つ…
この世に生まれてきた証しを残したい…
世の中にある様々なモノを手にしてみたい…
はたまた優越感や自己顕示などで精神的に満たされたい…等々

人が一日を生きる間には、本能的な欲求を含め、様々な幸福の追求があります。

むろん、あらゆる行動において自分が幸福を求めてそうしているなどという意識はないでしょう。

しかし、それらの行動を掘り下げて考えていったとき、それらはみな人生の充実を求めての行動であることに気づくはずです。

人間は一日たりとも空虚ではいられないのです…

太古の昔から私たちの生命は充実を求めて活動してきたのだから…

テレビを見るのも…
スポーツに熱中するのも…
充実感=幸福感を得ようとするからです。

人はこの充実が得られない時に“不幸”を感じ、得られた時に“幸福”を感じているのです。

とすれば、
人生には…否、
あらゆる日常に幸・不幸があるのが当たり前!…その認識が重要です。

しかし、
それは“幸福”の一断面であって、人生全体の充実、生命全体の充実とは必ずしも言えないのです。

さて、ここからが本題…

例えば、
ある人が何かによって喜びに浸り、幸福を満喫していたとしても、次の瞬間に事故や災害に遭遇したら…

あるいは幸福の反面でその家庭が殺伐としていたとしたら…

…それは一時の幸福感と言わざるを得ません。

何故ならその何かを失った瞬間にすぐに不幸に落ちてしまうからです。

極端と思うかもしれませんが、人の幸福のほとんどはこうした水泡のようなすぐに消えゆくモノなのです。
こうした幸福をAパターンとします。

苦痛の不幸を感じている人のほとんどが当座の欲望を満たす事にとらわれてしまいAの幸福感=充実感を得ようとします。

しかし、食事をとるのと同じで一時的に満たされてはまた空腹に身を焦がす事になり、いつまでもイタチの追いかけっこです。

では食事が空気のように無限に利用できるならば…

今度は退屈の不幸が訪れるので、新たなAの幸福を得ようとするだけです。(笑)

ショウペンハウエルは、
“人間の幸福の二つの敵は苦痛と退屈である”
と述べています。

これに対応して幸福にも二つのパターンがあると考えられます。

一つは先に述べた欲望が満たされることによって得られるAの幸福。

そしてこれから語るもう一つの幸福…

それは自分の命がなすべき事を自覚し、それを成しゆく過程で得られる生命としての充実感=幸福感です。

春になるとツバメは必死に体液を吐いて巣づくりしますょね…
でも悪い人は卵を産む前に盗っちゃいます…
何度も何度も…

それでもツバメは腐らずに何度も何度も巣を作ります。
最後には文字通り血ヘドを吐いて赤い巣を作る事もあるそうです…

何故でしょう?

それは巣づくり=子育てがツバメの生命に深く刻まれた充実感=幸福感だからではないでしょうか?

そうした幸福感は私達人間にもあります。
…どころか人間であるがゆえにもっと奥深い幸福感を追求できるはずなのです。

便宜上これをBの幸福感とします。

Aの幸福は…

お腹が空いた→
食べ物がある(幸福)→
美味しい食べ物がある(より幸福)→
普段より豪華な食事ができる(さらに幸福)→
他人より贅沢できる(際限なく幸福)→…

状態でみるとAの幸福は非常に相対的です。
もっと言えば自己中心的です。

対してBの幸福は…
自分の命のなすべく事を自覚して、それを成しゆく過程である以上、持続を止めない限り幸福が消えません。

どころか…
生涯をかけた自分の成しゆく使命を自覚し、それを遂行する事に喜びを感じられるならば、自身の生命に永遠に刻まれる歴史となるでしょう。

それは決して幸福の一断面などではなく、人生全体の幸福であり、生命全体の充実感となって我が身を飾る事になるのです。

状態によって左右されない絶対的な幸福であり、そのほとんどは他者との関係性に重きをおいた指導性の高い幸福感=充実感となっているはずです。


人生50年と言われた時代…
人は生きていくのに必死であり、幸福の追求などと考える時間はなかった…
というより“生きる為に費やす時間”が人生のほとんどだった…

しかし文明が発達し、人が豊かさを考える時代に入った今…
我々は有意義な人生を送る為にも確かな幸福感を身につける必要に迫られているのです。

“幸・不幸は心の持ち方しだい!”
…などと観念論を論じるつもりは毛頭ありません。
そうした意見は幸福追求の指導性を欠いた次元の低い意見ですから。


さてここまでで、幸福には二つのパターンがある事に触れましたね…

そんなの言われなくても当たり前だ!
私は自分の人生の幸せに誇りを持っている!

…という方はすでに自分の人生目標を自覚した日々を送っていることと思います。
これからも頑張ってください。
心より応援いたしします。

反対に…
人の幸せにAもBもあるか~!
何が違うんや~!

…と思う方は是非とも次回の日記も読みに来てください。
次回はもう少し具体的な例を交えて書きます。

では…
今回はこのへんで…パー


この日記はあくまでも個人的主観であり、質問・クレーム等には一切お答えできませんので、ご了承ください。
--ニュース記事--

女子は男子の低い声に魅力を感じるってのは、どれぐらいの女子に当てはまるのでしょうか?

ちなみに自分もかなりの声フェチかも音符
高くて可愛らしい声をした女性はほぼ好きになりますラブラブ
好きな音楽もキーの高い女子の曲が多いですニコニコ

生物学的に見ると、我々の祖先は視覚より聴覚が先に発達した事に由来するらしいですガーン
つまり、鳴き声を耳で聞いてオスとメスを判断していたという事パー

僕的には声が魅力的だとルックスが5割増しに良く見えますにひひ

皆さんはどうでしょうか?(((^_^;)