昨日は面接で失敗した話を書いた。

終わったことを後悔してもなにも変わらないのだから未来を見て頑張ろうと思う。

 

 今日も決戦の日だ。

今まで培ってきたコミュニケーション能力と持ち前の臨機応変に対応する力を活かし、

戦ってきたいと思う。

 

ゴールはここじゃないまだ終わりじゃない

やむことのない歓声

あなたは先の方

ずっと先の方

追いつきたいなら今はTRY

 

 まだ試合は終了していない。

面接で他の人と差をつけられたかもしれない。他の人はずっと先にいるかもしれない。

 しかし、試合は終わってないんだ。

自分が試合終了と思わなければ。試合終了のホイッスルが鳴るまでは。

 

 以前の自分は自分で勝手に判断して、試合をあきらめていた。

まだ終わっていないんだから、全力で試合に臨みたいと思う。

 

 

 

 

 私は面接で失敗した。自分の良いところをうまく表現できなかったのだ。

 私が失敗したと思う点は二点ある。一つ目は、自分の短所を聞かれたときに、一人で考えこんでしまうと答えたのだが、

面接官の人にはあまり悩まない人だととらえられた。面接をしているときにはあまり思わなかったのだが、終わってから考えてみると

言っていることと、受け取られた雰囲気が異なるので、こいつ一貫性がないなとと思われたのかなと、自分で勝手に思ってしまった。

 

二つ目は、自分の前職の退職理由である。前職の勤務体制が自分の身体に合わずに前職はやめてしまった。自分の

身体的な理由を第一にあげてしまうと前職から逃げてきたのかなと思われるかもしれないと思ったので、病気でやめたことと違う理由を

面接で言った。最終的には病気でやめたことを言った。面接官に退職理由を隠したように自分は思ったので、そんなことなら最初から素直に言った方がよかったのではないかという後悔が自分をさらに落ち込ませた。

 

以上の二つから落ち込んでいたのだが、まだ試験に落ちたとは限らない。

不合格の通知を受け取ってこそ自分が落ちたことがわかる。

まだ落ちたことが確定していないのに、勝手にそういう風にとらえ、今後を過ごしてしまうと後々影響がでる。

そのため、気持ちを切り替えてこれから過ごしていきたいと思う。

 

 

 

 皆さんは勉強する際にどのような勉強方法を用いているだろうか?

勉強方法には、テレビや音楽を聴きながら勉強する[ながら勉強]、

もしくは完全無音下で行う[ガチ勉強]と大きく分けて二つある。

 

 まず前者の特徴を述べていく。

ながら勉強は文字通り、テレビや音楽を聴きながら勉強を行う勉強である。

メリットとして、勉強に手を付けやすくはなるが、

デメリットとして、周囲の音に気を取られてしまうため、あまり集中して勉強を行うことができない。

勉強をすることが嫌いな人にはお勧めな勉強法だ。

しかし、効率面ではすごく悪い。

 

 次に後者の特徴を述べていく。

ガチ勉強は自分の世界に入り込んで、集中して行う勉強方法である。

メリットとして、集中して勉強を行うため勉強の効率が良いが、

デメリットとして、勉強が嫌いになったり続かなくなったりしやすい。

受験勉強など、時間がない中行うのに適した勉強方法だ。

 

 私は、両者の良いとこ取りをした、授業型勉強を提案したい。

授業型勉強とは文字通り、勉強をしながら一人で授業をする。

勉強中に言葉を発し、手を動かし、まるで教師と生徒同時にやっているような感覚だ。

自分が自分に教えるのであり、教えられるのである。

授業をするには、物事の根幹であったり、つながりを理解する必要がある。

そういったものを、まずは頭にインプットし、授業をする際にアウトプットすることで楽しみながら勉強をすることができる。

 

 私はこの勉強方法を実践してから、非常に効率的に短時間に物事を覚えることができるようになった。

ぜひ、みなさんも実践してもらいたい。

 

 

 

 

 

 勉強と聞いてイメージするものは受験勉強である。

中学生、高校生は高校、大学受験に向けて猛勉強をする。

勉強が嫌いな人にとって、地獄の時間である。

 

 では勉強は受験の時だけで終わりだろうか?

答えは違う。

大学に進んで、あるいは社会人になっても勉強というものが付きまとってくる。

実際社会人になった後の方が勉強することも多いし、難しいことを勉強する。

 

中高生の諸君は勉強から逃げずに、向き合ってもらいたい。

勉強から逃げると、後々苦労するのだから・・・

最近の中高生、若者の流行り言葉を挙げてみる。

「〇〇み~」、「草生える」、「~んご」などがある。

「〇〇み~」を例に取ってみると、辛み~、嬉しみ~、やばみ~などがあげられる。

これらは元々、辛い、嬉しい、やばいといった形容詞が元となっている。

これらを名詞化したものが直接の語源である。

ではなぜ、「辛さ」ではなく「辛み」が若者言葉として使われているのか考えていく。

 

 言葉は人間が生まれてから生まれては死ぬの繰り返しである。

使われない言葉は淘汰され、消えてなくなる。

これは長年繰り返されているものである。

例えば、国語の古文で平安時代の書物を勉強すれば、今の時代の人はほとんどわからないだろう。

それは平安から現代に至る間に、使われないものは淘汰され、使われるものも話しやすいように変化してきたからである。

つまり、言葉はその時代、話す人に応じて変化してきたのである。

これと同じことが現代の若者にも言うことができる。

 

 また、別の視点から若者言葉を考えてみる。

今の時代、TwitterやインスタグラムといったSNSが発達している。

これらは、投稿者の投稿事項をそれを見た人が共有し、一体感を味わうのがSNSの醍醐味である。

その際に重要となってくるのがリアリティーである。

投稿者は見たものをできるだけリアルに伝え、共有しようとする。

 

 ここで、「暖かみ」と「暖かさ」について考察する。

「暖かさ」はイメージとして客観的尺度を示し温度とかを表す。

一方で、「暖かみ」はイメージとして主観的尺度を示し人によって感じ方が違う。

○○みという言葉は見たままを表現するのに適している。

 

 そのため、「辛み」、「嬉しみ」、「やばみ」といった言葉は、今起きていることをSNSを用いて、

よりリアルにより現実的に周囲に伝えるために生み出された言葉である。

 

 言葉は必要に応じて改良、または生み出される。

これは、その時代、話す人々のニーズに応じて変化していくものである。

今の若者言葉が生み出される背景は平安時代となんらかわりがないのである。

 

 

 

 連日猛暑日が続いており、メディアが耳にタコができるくらい報道している。

実際外を少し歩くだけで、汗が噴き出てきて非常に辛い季節である。

 

ところで、猛暑日の定義をご存じだろうか?

猛暑日とはその日の最高気温が35℃以上の日のことを言い、

真夏日とはその日の最高気温が30℃~35℃のことを言う。

今年の夏は猛暑日が何日も続き近年稀にみる以上気象である。

 

 ここで田舎の暑さと都会の暑さを比較したい。

本日A市(田舎)の最高気温は32 ℃、一方B市(都会)の最高気温は37.4 ℃である。

両者を比べると約5℃の違いがある。

5℃も気温が違えば、体感の気温はもっと異なるはずである。

なぜこのような差が生まれるのだろうか?

 

私は3つの理由があると思う。

一つ目は土地である。

 A市は田んぼや木が多く緑豊かな町である。

一方で、B市は高層ビルが立ち並び、大都会である。

木や田んぼが多ければ、熱を吸収してくれるのに対し、アスファルトやビルは熱を反射し熱がこもる。

 

二つ目は、人口密度である。

一般的に都会の方が、田舎より人口が多いので、人口密度が高くなる。

人口密度が高い方が、熱がこもりやすい。

 

三つ目は風である。

都会の方が、高層ビルが多く、建物の密集度も田舎に比べ高いので、ビルの間を風が通りずらく、熱がこもりやすい。

 

以上三つの理由から、都会は田舎に比べて、暑くなりやすい。

私は、あっついのが大の苦手なので、田舎に今すぐ逃げたい(笑)

 

 

 

 座右の銘とは誰しも必ず持っているもので、常にその人の心に留めておき、自分の励ましや戒めとする言葉のことである。 

私の場合、座右の銘は、「艱難汝を玉にす」である。

人は多くの苦しみや困難を経て初めて立派な人間となるという意味である。

私がこの言葉を座右の銘する理由は私の過去にある。

 

 私は、大学院を中退した。詳しい内容は省略するが、教授からのパワハラが原因だ。

当時、夜遅くまで実験し、成果がでないのを繰り返し、ついには病に倒れた。

倒れた当初思っていたことは、一刻も早く大学を辞めたいである。

あの教師から、あの実験から一刻も早く逃げ出したかった。

当初はそのように思っていたのだが、時間が経つにつれ、一度今の状況に真剣に向き合ってみようという考えになった。

そうすると、思ってもいなかったことが、見つかった。

それは、私が[理系に向いていなかった]のである。

 

 しばらくして、大学を辞めた。

これは、倒れた当初思っていた、ただ逃げ出したいという意思から来たものではなく、

前向きにとらえて自分の適正が理系にはなかったというものである。

この結果は。ただ苦しいから逃げるとか嫌だから逃げるといった時には導かれない。

ただの逃げ癖が付くだけである。

自分の今置かれている状況と向き合い、乗り越えた結果導きだされた結果である。

大学を辞めることは、友達からの反対や、親からの反対がありとても大変なことであった。

しかし、それを乗り越え自分の適正を知ることができたことに、成長があったと感じている。

 

 話が変わるが、これは昨今問題になっている中高生のいじめによる自殺にも当てはまると思う。 

テレビでよく報道されているいじめの内容はどれもひどいものが多い。被害者がつらい思いをするのもわかる。

 

しかし、私はなぜいじめに対して真剣に向き合わなかったんだと思ってしまう。

被害者生徒が自殺をすることは、ただいじめという事実から逃げているという風にしか見えない。

大人からしたら、社会にでるともっと辛いことが山ほどある。

向き合った結果、不登校になることもかまわない。

それなら、高卒認定試験を受け大学生になる方法だってある。もしくわ一念発起して中卒で働くという手段もある。

ただ、今が辛いから苦しいからという理由だけで、自殺をし現実から逃げることは間違っている。

人間は困難を乗り越えることで成長できるのだから。

艱難汝を玉にすという言葉が表しているように。

 

 

 

 

 

 

 恋愛と聞いて、何が思い浮かぶだろうか?

カップル?、付き合うこと?、将来の結婚?・・・人それぞれ思うことがあるだろう。

また、恋愛をする時期によっても恋愛の意味は違ってくる。

中高生の恋愛と大人のする恋愛では、形態も目的も異なってくる。

私のイメージでは、中高生の恋愛=依存の関係、大人の恋愛=共存の関係であるとおもう。

例えば、中高生のカップルの中には、駅前で回りに目もくれずにいちゃいちゃする。

一方で大人がそのようなことをしているのはほとんどない。

私は恋愛とは、自己を成長させるものであると思う。

恋愛を通じて、自己と向き合い、壁を乗り越えることこそ恋愛の醍醐味であると考える。

 

 私の恋愛を例にとって考えてみる。

私は過去6人の人と付き合い、いろいろな恋愛を経験した。

二人は高校生、4人は大学生になってからだ。

高校生の内は、ただ好きだから付き合っていた。

そして、なにも考えずに付き合っていたため、今思えば成長できた部分はない。

 

 一方で、大学生になってからの恋愛では、様々な成長を感じることができた。

大学生になった当初の恋愛では、高校生と同じように考えていたため、お互いの関係は依存していた。

また、互いの悪い部分も指摘し合うこともなく、ただ好きだから付き合っていた。

 

 しかし、ある時私の考えは大きく変わった。

それは彼女と本気の喧嘩をした時である。

喧嘩の内容は覚えていないが、互いに思っていることを本気で言い合った。

そして、冷却期間をおいてしばらく会わないことを決めた。

当初冷却期間を置くことに納得がいっておらず、相手が言ってきた不満に対して、なんで不満と思うのかもわからずに腹が立っていた。

しかし、少し時間を置くことで、次第に今までの自己の恋愛について客観視することができた。

そして自己の問題に気づき、問題を解消または妥協することの重要さを学んだ。

結果としてその彼女とは別れたが、自分にとってはいい経験であった思っている。

 

現在の彼女とは自己の失敗を踏まえ、付き合っている。

その結果、今の彼女は彼女ではあるが、異性の気の置けない友達というイメージの方が強い。

お互いに「好き好き」で付き合っているのではなく、互いが独立しており困ったときに助け合う、友達以上の存在みたいな感じである。

 

自分の恋愛経験を踏まえ、恋愛とは互いに依存しあってなすものではなく、互いが共存できるような関係を気づき上げていくものだと思う。

その過程で自己と向き合い、壁を乗り越えることで、人間的に成長した大人になるのではないかと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

机は人間の生活に、なくてはならないものだ。

仕事をするときも、ご飯を食べる時も、勉強するときも人は机と対峙している。

人間が生活していく上で机は不可欠である。

 

ここで机との関わり方について、考えてみよう。

幼少期には机は必要ではない。なぜなら、主に「はいはい」をしてあちこちを歩き回るので、座って何かをしようということはない。

地面の位置≒目線の位置である。

 

これが、二足歩行をするようになると事態は変わってくる。

一日中立っているわけにもいかないので、休憩するために座ろうとする。

座り方には二種類あり、おしりを地面につける or 何かに腰を据える方法がある。

前者の態勢は非常に苦痛であり、後者の姿勢は非常に楽である。

またなにか作業をする際の目線も、前者だとしたを向くことになるが、後者はまっすぐ前を見ることができる。

したを向いたまま作業することはやりにくく、効率も悪い。

 

人間は、机というものを使って、作業場所を上にあげる。

それにより、効率的に作業をすることができる。

机というものは、人間が効率的に作業をこなすうえでなくてはならないものである。

 

 

 

 

 本は人間に知識を与えてくれる。困ったときに頼れるのが本というものが本というものだ。

例えば、人間は人生の岐路に立った時、過去の偉人の書物を見て感化され、新たな知識を手に入れ前へ進もうとする。

 

 では、本の言っていることをそのまま鵜呑みにしてよいのだろうか?

本を読んでいる人と偉人の置かれた状況が完全に一致していることはまずない。

今置かれた状況、周囲の状況、目的を考慮してできる最善策がなすべきことである。

だから本の言っている通りに実践しても同じ結果にはならない。

 

本の知識を有効に活用するためには、本の知識とそれをどう生かすか(人間側の裁量)にかかっている。