以前から、手話歌に違和感を感じていた。


『声に出して歌いながら手話を使う』という事に。


 果たして、誰のための何のための手話歌なのだろうか。もしも、聞こえる人が聞こえない人のために歌っているとしたら、そこに何があるのだろう?

聞こえる人のように話せないのに、声を出して歌うのを見させるなんてどんなにか残酷なのだろう。


 じゃあ、聞こえる人のようには歌えないのだったら、手話歌でなく『手歌』はどうか?


『手歌』とは歌詞をなぞるように声を出して歌うのではなく、声をオノマトペ的に使い、表情含め全身で歌う。

聞こえなくても何を言っているのかわからなくても歌として心に響く。そんな手歌だったら、どんなにか素敵だろうと思う。



 よく「音楽は心を豊かにする」というが、心を豊かにしてくれるのは、音楽だけに限らず出会うもの全てからであり、受け止める本人次第だと思っている。だから、「音楽だけが人生ではない。」



 それと、ついこの前に知ったのだが、合唱は西洋音楽なのだという。伴奏に合わせ、全員で合わせて歌う。コーラスもゴスペルも。

何が言いたいのかというと、合唱のようなやり方とは別のやり方でやってもいいじゃないかと言いたいのだ。


皆一緒に合わせて歌う事にとらわれず、自由であってもいい。


私には思い浮かぶ。セットも音楽もない、だけど手話(声はオノマトペのみ)だけで全てを表現するろうあ者の総合芸術、『手歌劇』の舞台が。

これが発展すれば、ろう文化に一つの華が咲くのではないだろうか。