群馬ろう学校に物申す

群馬ろう学校に物申す

群馬ろう学校のあり方に物申す聾者です。耳が聴こえない人を理解していない群馬ろう学校から耳が聞こえない人を深く理解し、聾者のために何をしたらいいのかと考える群馬聾学校へ改革するために立ち上がりました。

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群馬聾学校のFacebookが削除されました

かなり批判的なことを書いていましたので・・・
事実をお話ししていたんですが・・・
仕方がありませんので引き続きここに投稿しようと立ち上げました

削除は聾学校の依頼と予測されますのでマズイと感じたのでしょうか?
いいねとファンが増えて行ったのに残念でなりません

ブログのタイトルも
群馬聾学校に物申すと変えました


人工内耳が我がろう学校では50%の割合をしめています。
私がいた頃と比べると、多くいるので、脅威を感じます。

なぜこんなに多くなったのか?

以前では補聴器をつけても全く聞こえない。
聴覚がない方のみ人工内耳に希望があったと思います。

でも、人工内耳に嫌悪を抱いた私ですが、

本当に、補聴器を使っても聞こえないかたがいるのも現実。

90デジベル以上で補聴器に効果が見られないだけで、


人工内耳を進められる大きな病院・・・

その判断を幼児時に親や先生が決定するのはどうかと思う。

親も、先生の言われるまま・・・
事情があったにせよ・・・
子供の意見を聞かず、親の希望のまま人工内耳を入れられるのは、
どうかしている。

子供は聞こえを求めていなかったかもしれない。
求めていたかもしれない。

私の聴力は、90デジベル以上である
人工内耳が進められる時代でなかっただけに、
人工内耳を入れてなかったのかもしれない。

現在の時代に生まれなくてよかったと思っている。

聞こえないのは、障害ではないという方もいますが、
私は、障害だと思っています。

でも皆さんが思っているほど、
困る障害ではありません。

目が悪いからメガネを掛ける方も、目が悪いという障害です。
この障害というレベルです。

もっと重い障害の方がたくさんいます。

ヘレン・ケラーのように目と耳の障害など・・

そのかたに比べれば、
私達の聴覚障害なんで・・・軽いものです。

聞こえというテーマに永遠のテーマがあると思う。

生まれながらに聞こえない方は、
それが自然なので、聞こえないことを不便と感じていないはずです。

不便と感じるのは、聴者と同じようにならなければならないと
思っている方である。

その方が、少しでも、
耳が聞こえない人の気持ちを察し、
手話なり、筆談なり、口話なり、身振りなり、
理解を示せれば、不便と感じないのである。

その中でも、口話は、
レベルの違いが見られる。
口話が聞き取れる方、読み取れる方がいるのも現実なので、
それは、その人の才能だと思う。

現に、聞き取れない。読み取れない方もいるのだから、
手話と、筆談と口話を使った融合教育が望まれている時代になっているのではないか?
Xろう学校の先生方が目指しているもの

かつての私にも、
口話法で学びました。

口話法で、学んだ結果は、
トラウマがあるほど、ふかいキズを負いましたが、
ある程度喋られるようになりました。

ある程度の度合いといえば、
聴者のようには喋られるのではありませんし、
アメリカのミスコンテンストに選ばれた女性のように、
スピーチが素晴らしかったほど、喋られるようにはなっていません。
でも、私の知っている範囲では、
聴者ほどではないと思いますが、
はっきりとお話がわかるという方もいます。

これは言い逃れのない現実です。
おそらく努力して、お話ができるようになりましたが、
想像を絶する努力だったと思いますし、
才能もあったと思います。

でも確率から言って、
スーパー天才と呼ばれるほどの子供たちのように、
少ないです。

それに、
喋られるからって、相手の話を理解しているのかといえば、
そうではないことが多いです。

一方的にお話して、相手のことはおかまいなしと・・・
キャッチボールのような会話にならないろう児もいるぐらいです。

親たちも、喋ることに固執しすぎて、
気持ちが通じ合える会話ができないろう児もたくさんいます。

補聴器がない状況が24時間の内に必ずあります。

寝るとき
お風呂に入っているとき
プールに入っているとき
耳が痒くて補聴器を取った時

などと補聴器をつけていないケースもあるわけです。
他にも、私のように、小さい時は、なんともなかったのですが、
今は、補聴器をつけると圧迫からめまいを感じることが
度々あったので、補聴器をつけるのをやめました。

自分の子供がわたしのようになんらかの理由で補聴器を
付けられなくなったことも考えなければならないと思います。

その時の親との会話にろう児はどう理解しているのだろうか?

そのことから、
子供たちに口話を覚えてもらいたい親たちは、
手話を覚えてもらいたいとろう児たちは切に思っているよ。

私の親も覚えてもらいたいと思ってたので、
私の親たちは少しですが、手話を使ってくれています。

そのことに少しでも距離が縮まったと思い、嬉しいです。
私の子供たちが通っているろう学校をXろう学校とします。

Xろう学校の先生方と見解の相違がありすぎる。

今のXろう学校のろう教育は、口話教育主義。
絶対に変えようとしない姿勢を取っている。


教頭先生: 「日本語を身につけるためには、日本語のある環境が必要です。」

私達だって、子供に日本語を身につけてもらいたいです。
日本語を身につけるには、日本語のある環境が必要なのは、
私達も同意しています。

でも、それに同意しない先生方の説明が、矛盾している。

見解の違いは、
先生方が言う日本語とは音声言語による日本語。
私たちは、手話言語による日本語。

上記の先生が言っていたことを私達なりに解釈すると、

「喋られることを身につけるには、喋られる環境が必要です。」

そのことではないかね?
音声言語で日本語を身につけようとする先生方。

校長先生: 「手話は、視覚言語なので、音声言語を身につけて、音声言語を使う地域の学校へ通わせたい親たちの考えもありますので。。。」

まさに聴者の考え方。
ろう者をよくわかっていない。
ろう学校の校長先生なのに・・・

手話は視覚言語といった次点で、ろう人権をすでに剥奪している。

わかっていないのは、
ろう児は、先生が音声言語を使っても、手話を使っても、
視覚言語として、言葉を獲得していること。

補聴器の残存聴力で言葉を獲得しているから、
頑張れば・・・訓練すれば・・・
音声言語の日本語が身につけられるようになります。

いくら頑張っても、
補聴器のみで、音声言語を補えるはずがない!

たしかに、音声言語を使う地域の学校へいっているろう児がいます。
でも、その人は、補聴器のみで音声言語を獲得しているわけではないと思う。

補聴器
読話
周りの雰囲気
その他のα

で、理解している。

その中に、読話があります。
それが一番重要。
お友達や先生の口が見えない状態では100%理解出来ないに決まってます。
理解していると言っている方がいると思います。

その人は、おそらく話したことを文章にしてみると、
間違いがあるに決まっています。

文章ではなく、言っていることには理解できていることです。
それが複雑なお話になってくると、誤解を生む原因になりかねないです。

そういうことをXろう学校に働いている方が、認識さえしていれば、
手話言語を導入したい私たちのいうことがわかるんではないかな?

先日の出来事なんですが、
奥さんより、タイトルとおりのことを聞きました。

「手話での会話を奪うろう学校教師」奥さんと娘の会話を止めて、泣き出した娘・・・

その後、、、

奥さん: 娘にどうして泣き出したのかな?
娘: 先生がママとの会話を止めた。

教頭先生や別の先生が見学に来た時のことでしたが、
校長先生や教頭先生や幼稚部の先生と
手話についての話し合いがあった時に、

校長先生: 手話は禁じていません。
幼稚部の主任: 手話はダメといっていません。

教頭先生は言って来なかったのですが、
手話は使わないほうがいいと以前にお話ししていました。

そのことからなのかな?
担任先生は、手話を使わせようとしなかったのかもしれません。
しかし、先生と生徒の会話に手話を使わないことを
今、強く訴えているのですが、
親の会話まで手話を使わせようとしないことには、ビックリしました。

いまだにこのようなことがあるとは信じられませんでした。
まるで、ナチスのヒットラー政権が行ったユダヤ人の人権剥奪みたいと感じました。

そのこともありまして、
先生に強く訴えなければならんなと思いました。
我が子供がろう学校で教えている現場を見て、
なんかすんごく変・・・

私が小さい時は、その変なことはわからなかった。
わからないって言うよりも、これが当たり前なことだと思っていいた。

しかし、
その当たり前なことと思っていたことが、
ろう者として生きてきて、ろう者の生活が当たり前になってくると、
Xろう学校の教育方針はなんか変!!


そう思って、色々と、
調べていくと、私が感じたことは間違いなかった。


調べていく内に、
手話はろう児・ろう者の言語であることがわかってきた。

しかも・・・
第一言語であること!

聴者の子供としてうまれた私は、
ろう学校に入るまで、言語が果たしてあったのだろうか?

親が一生懸命なのだから、
子供を喜ばせたい。
子供の笑顔を見たい。
子供とお話をしたい。


そう思うと、最初は身振りで言葉を表していたのだろう?
それでなくても、体当たりで子育てしていたと思う。


あっちと指さして話しかけたり・・・
笑顔を見せてたり、あっぷぷして笑わせたり、
いないいないばぁで笑わせたり・・・


私の親なりに色々と工夫してきたと思う。

気持ちが通じたと思った後に、
ろう学校へ通わせ、
手話は日本語が遅れるので、
これからは口話を使った教育を始めましょう。

「大丈夫です。 一生懸命にやれば、喋られるようになります。」

そうして、口話教育を受けていったと思われます。


なぜ思われるのかといえば、
口話教育を受けて後悔している親たちの話や、
ウェブページをよく見かけます。

その人達は、
みんなこう言います。

「先生が、喋られるようになります。」

そういえば、聴者の皆さんは喋られる子供になりたいに決まっているんではないか!


果たして、これが本当にろう児は幸せなのか?
喋られることは親にとって幸せなのかもしれませんが、
ろう児にとっては幸せじゃありません。

なぜ?
これが言えるのか?
自分がたどってきた道だからはっきり言えます。

幸せじゃありませんでしたよ。
自分が幸せと思えるようになったのは、
手話を覚え、皆さんとお話ができるようになってからです。

私は、耳の聞こえない方にとっては喋られる方でした。
ほぼ話は通じていますが、話が長くなったり(言葉を5単語以上組み合わせるレベルかな?)しますと通じません。
言葉の3単語ぐらいでしたら通じます。

ただし・・・
限定されます。
私の声に聞きなれている方のみです。
最初は聞きなれず、お話ができませんでしたが、慣れてくるとお話ができるようになる程度です。

それに、
お話ができるようになるために、
読話を覚えなければなりません。

読話を覚えるのってかなり高度な技術を要します。

口の形から、単語を使い分けるんです。

「い」「き」「ち」・・・
似た口の形がたくさんあるんですが、
それを使い分けなければ、話になりません。

色々と覚える・・・
言語は覚えるものなんですが、
聴者の皆さんが、子供の時から当たり前にお話ができるように、
私達も当たり前にお話をしたい。

それを伝えようと校長先生や教頭先生や主任にお話ししても、
なかなか真意がわかってくれない現在のろう教育です


日本語を覚えるためには、日本語を使う環境にいる必要がある!
と先生は言っています。

日本語を使うことって喋られることですか?
手話を使って日本語を喋ることっていけないことなんですか?

聴者は、日本語を喋るために、発音を使ってしゃべっているんではありませんか?
発音によるお話をして日本語を覚えているじゃないの?
聴者にとって日本語を覚えることって何なの?

手話は視覚言語とも言っていました。


私から見れば、
口話は手話という手の形を口の形に変えただけの視覚言語と同じだろう!


聞き取りの上手な子は、補聴器を使えば、
使い分けられるかもしれませんが、
それも限定された人のみです。


保育園や幼稚園の子供達と触れ合ってみてください。
100%聞き取れないに決まっています!
それに耳が聞こえないことを理解しない聴者は、
決まって早言葉で喋ります。


早言葉だと、読話ができないし、聞き取れません。
それが、ろう児・ろう者の限界です。

ただ・・・
その限界があっても、
先生や親たちの心配をよそに社会では生きていけます。
皆さんの支えは必要ですが・・・