NPOで、ろう的な手話を学ぶ「かごしまJSL手話クラス」を始めて1ヶ月が過ぎた。講師は、ネィティブ手話を駆使するサムソン&ケンゾー。(日本人です苦笑)
手話クラスはオール読みとり通訳なし&音声会話禁止。
手話はろう者がよーく使うネィティブ手話であり、スピードは聴者に合わせず、ろう者同士が話す速いスピード。
CLや翻訳を中心にしていて、始めての試みだから試行錯誤しつつ進めている。
私は講師ではないが、ヘルプ役だ。
講師の指導や解説を聞きつつ、だんだんと「手話はろう者のもの、ろう者の言語」だと強く思うようになった。それはサムソン&ケンゾーから教えられたこと。
「ろう者としての誇り」
「手話に対する誇り」
「手話には、デフコミュニティで育った人にしか知らない領域がある」
改めて、ろう者そして手話に対して尊敬の気持ちを持つようになった。
私はインテした普通校で育ったから、デフファミリーそして手話を途中から覚えた者だけど、やっぱり「手話指導」はデフコミュニティで育った人にしか語れない世界があり、説得力がある。
実は私は手話講師になったらどうか、という言葉を以前から言われてきた。しかし、「手話はろう者のものであり、手話を教える者はろう者が一番適任」という意識がかなり以前からあったので、教えようと言う気になれない(苦笑)
言っておくが、私は「ろう者」というアイデンティティを持ち、ろう者そして手話を愛してやまない一人だ。しかし、手話指導はデフコミュニティで育った人が一番だと思っている。
これは私の信念であり、だからといってインテしたろう者が手話を教えることを咎めはしない。しかし、教えるならば「手話」という言語、「ろう文化」に対して神聖な気持ちをも持っている人が教えるなら最高だけど(苦笑)
しかし、「手話講師」たるろう者は、指導するにあたって手話を研究し、日本語も覚える努力をし、恥じることなく誇りを持って指導できることが一番望ましいと考えている。
その点でサムソン&ケンゾーは努力しているせいか日に日に指導者としての成長が見られ、「手話はろう者のものだ!」という誇りが伝わってきているようで拍手を送りたくなってきた。
以前から手話がブームになり、手話を覚えた通訳者が増えたのは嬉しい。しかし、一部ではろう者より自分が上だという意識を持っている人も悲しいかな、存在する。
「ろう者、そして手話あっての通訳者」ということを忘れて欲しくないし、「手話という言語は、ろう者にしか分からない領域」があり、それは聴者には踏み入ることのできない神聖な場所がある。
「手話はろう者の崇高な言語である」
そういう気持ちで、手話通訳活動にあたってもらいたいと思っている。
とにかく
ろう者が語る手話はとても素晴らしいぜよ!!
手話クラスはオール読みとり通訳なし&音声会話禁止。
手話はろう者がよーく使うネィティブ手話であり、スピードは聴者に合わせず、ろう者同士が話す速いスピード。
CLや翻訳を中心にしていて、始めての試みだから試行錯誤しつつ進めている。
私は講師ではないが、ヘルプ役だ。
講師の指導や解説を聞きつつ、だんだんと「手話はろう者のもの、ろう者の言語」だと強く思うようになった。それはサムソン&ケンゾーから教えられたこと。
「ろう者としての誇り」
「手話に対する誇り」
「手話には、デフコミュニティで育った人にしか知らない領域がある」
改めて、ろう者そして手話に対して尊敬の気持ちを持つようになった。
私はインテした普通校で育ったから、デフファミリーそして手話を途中から覚えた者だけど、やっぱり「手話指導」はデフコミュニティで育った人にしか語れない世界があり、説得力がある。
実は私は手話講師になったらどうか、という言葉を以前から言われてきた。しかし、「手話はろう者のものであり、手話を教える者はろう者が一番適任」という意識がかなり以前からあったので、教えようと言う気になれない(苦笑)
言っておくが、私は「ろう者」というアイデンティティを持ち、ろう者そして手話を愛してやまない一人だ。しかし、手話指導はデフコミュニティで育った人が一番だと思っている。
これは私の信念であり、だからといってインテしたろう者が手話を教えることを咎めはしない。しかし、教えるならば「手話」という言語、「ろう文化」に対して神聖な気持ちをも持っている人が教えるなら最高だけど(苦笑)
しかし、「手話講師」たるろう者は、指導するにあたって手話を研究し、日本語も覚える努力をし、恥じることなく誇りを持って指導できることが一番望ましいと考えている。
その点でサムソン&ケンゾーは努力しているせいか日に日に指導者としての成長が見られ、「手話はろう者のものだ!」という誇りが伝わってきているようで拍手を送りたくなってきた。
以前から手話がブームになり、手話を覚えた通訳者が増えたのは嬉しい。しかし、一部ではろう者より自分が上だという意識を持っている人も悲しいかな、存在する。
「ろう者、そして手話あっての通訳者」ということを忘れて欲しくないし、「手話という言語は、ろう者にしか分からない領域」があり、それは聴者には踏み入ることのできない神聖な場所がある。
「手話はろう者の崇高な言語である」
そういう気持ちで、手話通訳活動にあたってもらいたいと思っている。
とにかく
ろう者が語る手話はとても素晴らしいぜよ!!