品のない議論 | Market Cafe Revival (Since 1998)

Market Cafe Revival (Since 1998)

四つの単語でできた言葉の中で、最も高くつくものは「今度ばかりは違う」である(This time is different.)。

☆ 自分のことを棚に上げてこんな事を書くのも憚られるのだが,日本経済新聞(第44273号 2009年4月24日金曜日)第17(マーケット総合2)面「大機小機~エセ市場主義は資本主義の堕落」を読んで,いくら正しい部分を含んだものであっても「下品な議論」は支持されないだろうなと思った。


☆ お馴染みの「攘夷論者三人衆」のひとり「渾沌」に言わせれば,エセ市場主義とは「目先の利益だけを求め」る「投資銀行のご都合主義の論理」であるらしい。いかがだろう,諸君。全くその通りだとは思わないかね?この一節を読んで,先日行われたシティグループの年次株主総会での一シーンを紹介していた記事を思い出した。それはかつての「マーケットの守護神」ロバート・ルービン氏が同社の取締役を外れたことが決まった時に,ひとりの株主が叫んだ「よかった。これでようやくいなくなった」とかいう台詞だ。


☆ ゴールドマン・サックスが歴代の財務長官の過半を担った1990年代半からの15年ほどの期間,資本主義は19世紀の勃興期と同じ弊害を示すに至った。おそらくその背景には資本主義をイデオロギーとして牽制する役割を担っていた社会主義・共産主義が旧ソ連圏の崩壊を契機に資本主義・自由主義に再度取り込まれていったことがあるのだろう。渾沌が指摘するように気がつけば「ご都合主義の自由放任(レッセ・フェール)が「成果主義」だとか「目標管理」だとか「企業再構築」だとか「コアコンピタンス」だとかいう人事から経営にわたる広範な「リーダーシップ論」の中に紛れ込んでいった。


☆ ただ渾沌が喚(わめ)くほど,アメリカがそんな傾向に無批判だった訳ではない。1980年代後半のM&Aブームのクラッシュ(全米で多くのS&Lが破綻したし,マネーセンターバンクも中南米諸国への負債で危険な状況に陥っていた)はトレッドウエイ委員会の活動を経て,現在のサーベインズ・オクスレー法の原型を作っていった。今でこそ「悪役」扱いされているが,会計基準の問題は全て,渾沌の言うところの「塵芥(ちりあくた)」の如き数多の零細(泡沫)投資家のために行われた活動である。


☆ ただ,こうした地道な活動が衆目を浴びるのは,たとえば「エンロン=ワールドコム事件」のような場合だったり,あるいは米欧の「標準争い」(欧州はISOで規格のデファクトを握り,米国は「金融工学」で産業資本を支配する「金融資本」のデファクトを握ろうとした)のような「意図」がある場合に限られる。そうでない時にはいくら声を上げても無視されるか冷笑されるのである。


☆ 一方,渾沌の議論を読んでいると,理想の資本主義は「禁欲的なもの」であるらしいが,もしそのような理想がお望みなら,やはり夏目漱石の『草枕』の出だしを読めとしか言えない。禁欲的な支配体制とは,例えば宗教改革者のカルヴァンがジュネーブで行った神聖政治であったり,ジャコバン党やクメール・ルージュが行った恐怖政治のことでしかない(もちろんヒトラーやスターリンがやっていたことをこれに加えて構わないと思っている)。つまり「そんなものは存在しない。もし存在するのであれば,それが理想かどうかウインストン・チャーチルにでも訊ねてみれば良いであろう」としか答えようのないものなのだ。


☆ たぶんこれを目にしたら(する訳無いが)渾沌は火を噴いて怒るだろう(笑)。でも筆者は例えばフランス革命であればダントンでありたいと願う。人間はそのように愚昧で罪深いものであるからこそ,社会を作り・壊し・再構築し,その過程で「経験によってしか学べない己」を知るのである。


☆ 渾沌が言うほど「市場」は悪ではない。悪いのはその市場で私欲を隠せない人間自身であり,そうである以上どんなに「清貧な市場」を求めても画餅に過ぎない。だから「投資銀行屋」を跋扈させて良い訳はなく,ロバート・ルービンのシティグループからの「退場」のように「間違いを犯した(不作為の罪)者は,それに相応しい(基本的には「法的な」)非難と糾弾を受けざるを得ない」のが,自由主義=資本主義体制の限界(ルール)である。


☆ エセなのは市場主義でも資本主義でもなく個々人なのであり,自らの「エセ性」を棚に上げて街宣もどきの主張を大音量で書き散らす渾沌のような輩は,「品がない=正しいことでも支持されない」のである。


PS.最初に書いたように筆者も品の無いことでは人後に落ちないが,だからといって手近な処にある植木鉢を投下したいとまでは思わない(笑)。