俺は電話を切ると同時に会社を出ていた、自宅に着くと着替え等を適当に集めて、その荷物を急いで車に詰め込む、着替えもせずにそのままの格好で車を走らせ、由紀が居ると聞いた病院へ向かった。
 どれほど車を走らせただろう、東京を出たのは夕方だったがもう夜を過ぎて明るくなっていた、カーナビに目を向ける、11時20分、辺りは大分見慣れた風景になっている、記憶を頼りに目的の病院へ向かった。
 病院は直ぐに見つかった、広い駐車場に車を止める、車を降りると、大樹の焦る気持ちとは対照的に、田舎独特のゆっくりとした空気が流れていた。
 病院の中に入っても、待合室に居るのは老人ばかりで、都会の病院のような慌しさは無く、たったさっきまで東京で生活していた大樹には、まるで違う世界に来たかの様にも思えた。
 気持ちは焦っているのだが、周りの空気に合わせる様に大樹はゆっくりと病院の中を歩いて行く、佐々木さんから聞いた病室は205号室、階段を上り、各病室の入口に書いてある病室番号を確認しながら廊下を歩いて行く。
 201、2、203、4、205、ここだ。
 病室の前で深呼吸をして呼吸を整える、中に入るとそこは真っ白だった。
 壁も、カーテンも、ベッドも、シーツも、そしてベッドに横になっている女性の顔も、由紀だ。
 高校の時とは違い、頭に包帯を巻いていない為、長い黒髪が目立つが、元々色白だった由紀の肌は更に白くなっているような気がして、病室の風景に溶け込んでしまいそうな程だった。
 由紀は俺に気付くと、特に驚いた様子も無く、全て分かっていた、そう思わせるようなゆっくりとした動きで体を起こした。
 その様子を見ながら俺は由紀のベッドの脇まで歩いて行く、ベッドの脇に着く頃には由紀は既にこちらに向き直していた、そして。
「ごめん」
「ごめん」
 二人は同時に同じ言葉を口にした。
 急に来て、一緒に居られなくて、気付いてあげられなくて、ごめん。
 こんな恰好で、メール返信出来なくて、黙っていて、ごめん。
 互いにそんな気持ちを込めて言っており、それは相手に正確に伝わっていた、長い間一緒に生活してきた2人には一言で十分なのだ。
 俺は少し笑うとベッドの影に置いてあったパイプイスを取り出して広げる、そしてそれに座りながら言った。
「由紀も横になってていいよ、疲れるでしょ?」
「ううん、このままでいい、長い間ずっと横になって寝てばかりいるのも結構疲れちゃうんだよ」
 そう言うと由紀はベッドから足を出して座りなおす、俺は邪魔にならない様に椅子を動かした、その様子を見ながら由紀は笑っていた。
「どうしたの?」
 俺は笑っている由紀に言った。
「高校の時もこんな事あったなー、と思って」
「ああ、あの時は頭にオシャレなもの被ってたね、見る? 写真まだあるよ」
「いらないよー、そんな写真直ぐ消して」
 しばらくそんな風に思い出話を交えつつ、最近の事なんかを話す、気付くと外は暗くなっており、時計を見ると20時を少し過ぎたところだ、看護婦が病室の入口から声を掛けてきた。
「すみません、面会時間はもう終わりになりますので」
「わかりました」
 俺は看護婦に返事をすると立ち上がりパイプイスを片付ける。
「また明日来るよ」
 俺は看護婦が病室から出て行った事を確認するとそう言って由紀の手を握り、おでこに軽くキスをする、由紀は恥ずかしそうに俯いた、病室の入口まで行って振り返り、由紀に軽く手を振ると看護婦の後を追いかけた。
「すみません」
  看護婦を呼び止める、足を止めて振り向いた看護婦に追いついて聞く。
「あの、205号室の東郷由紀さんの事についてなんですが」
「えっと、どちら様でしょうか」
 看護婦は俺の格好を確認する様に足元から顔まで視線を流すと言った、俺は慌てて答える。
「あ、すみません、私、高校まで由紀さんとは同じ児童養護施設で住んでいまして」
 それを聞いて看護婦は少し考えるような素振りをしてから言った。
「そういう事でしたら明日、午前中来ていただけますでしょうか、主治医の先生も明日は午前中ならいらっしゃいますので」
「そうですか、わかりました、ありがとうございます」
 俺は主治医の先生の名前を聞いて病院を後にする、駐車場に停めてある車に乗り込みエンジンを掛ける、ガソリンの残量を見ると残り少しだった。
 病院に来る途中に見かけたセルフサービスのガソリンスタンドの事を思い出しそこへ向った。
 ガソリンスタンドに着くとエンジンを止めて車を降りる、機械的な女性の声が操作方法をアナウンスする、俺はそれに従って機会にお金を入れ、ガソリンを補給しながら由紀の事を思い出していた。
 そういえば運転免許を取って直ぐの頃、少し休暇を取ってドライブにでも行こうかと由紀を誘った事もあった、その時由紀は、就職してすぐなのだから仕事をしっかりと頑張るべきだと言っていたが、その頃からもう入院していたのだろうか。
 今更になって自分の鈍感さを悔やんだ。
 由紀はこれから就職する俺に心配を掛けまいと何も言わないで送り出してくれた、それに気付けていたならば、いや、薄々気付いてはいたが、深く考えもせず先の事ばかり考えてその時の由紀の様子をよく見ていなかったのではないだろうか。
 ガソリンの補給を終えて車に乗り込む、これからはずっと由紀の傍に居よう、そう思って車を走らせた。
 病院に戻ったが既に駐車場の入口は閉ざされていた、車を道路に停めたままどうしたものかと少し悩んだが、直ぐに車を走らせると、深夜までやっているスーパーマーケットへ向った。
 スーパーマーケットの前には田舎特有の広い駐車場が広がっている、駐車場の中を抜けて車を停めると、財布だけ持って車から降りて店に入る。
 買い物をする前にトイレに立ち寄る、手を洗いながら鏡を見た、ひどい顔だ、髭は伸びたままで目の下も黒ずんでいる、明日もこんな顔で由紀に会ったのでは不要な心配を掛けてしまうだろう、そう思ってトイレから出る。
 お見舞いの果物セット、果物ナイフ、髭剃り、タオル数枚、下着、必要と思ったものを次々と買い物かごの中へ入れてゆく、レジの直ぐ近くに陳列されていた買い物袋も2枚かごの中に放り込んだ。
 会計を済ませると、買ったばかりの買い物袋を広げてその中に買った物を詰め込んでゆく、約2年間、東京で一人暮らししていたのでこの手の作業は慣れたものだ、慣れた手つきで買った物を全て袋に入れた。
 車の後部座席に買い物袋を置き、運転席に座ってエンジンを掛ける、俺が次に向ったのはデパートだ、記憶が正しければ街の中にあるデパートの最上階に、サウナと銭湯が一緒になったような施設があり、そこは24時間営業だったはずだ。
 水田に囲まれた広い道を抜け街の中に入る、街の中の少し細い道を抜けるとデパートに着いた、記憶の通り最上階には銭湯があり、まだ営業中のようだ。
 立体駐車場の中に入り、最上階まで登って行く、最上階に着くと俺は車を停め、買い物袋の中からタオルと髭剃り、そして下着を取り出し、それを持ってデパートの中に入って行った。
 フロントの様な所で料金を支払うと、浴場へ向った、ロッカーへ着ている服を脱ぎ捨て浴場の中へ入る、シャワーを浴びて鏡を覗き込んだ、さっき見た通り相変わらずひどい顔をしている。
 髭剃りを取り出し備え付けの石鹸を顔に塗りたくり髭を剃る、顔と鏡をシャワーで洗い流し、もう一度鏡を覗き込んだ、多少ましになった。
 シャワーで体についていた石鹸も洗い流して浴槽に向う、お湯に浸かると深く溜め息をついた。
 こうして落ち着くと様々な事が頭を駆け巡る、由紀の病状はどうなのだろう、今日明日は休日だがそれ以降の仕事はどうするか、いや、仕事はどうでもいい、由紀の状況が分かってから考えればいい事だ、由紀の状況がどうであれ、これからはずっと一緒に居るべきだろう。
 由紀の病状はどうなのだろう、もし直ぐに治る病気ならば俺に隠す事はなかったんじゃないだろうか、いや、就職を控えた俺に少しでも心配を掛けまいと隠していたのかもしれない。
 考えていてもどうしようもない、そう思って、ふっと強く息を吐いて立ち上がると浴場から出た。
 髭剃りと今まで着ていた下着をゴミ箱に捨てて新しい下着に着替える、フロントで渡された袋から浴衣の様な服を取り出して羽織る、今まで着ていた服を袋の中へ詰め込んで脱衣所を出た。
 リラクゼーションルームと書かれている看板を見つけそちらに向う、正面には大きなスクリーンが設置されており、いつか見た事あるような映画が流されていた、スクリーンの脇には時計が設置されている。
 もう直ぐ23時になる、後ろの方に設置されている自動販売機でスポーツドリンクを購入し一気に飲み干すと、直ぐ脇にあるゴミ箱に空き缶を投げ入れ、リクライニングシートに深く座って座席を最後まで倒した。
 昨日から夜通しで何時間も車を走らせていて疲れていた俺はそのまますぐに眠ってしまった。
 翌日、目を覚ますとリクライニングシートを起こして時計を見た、8時を少し過ぎたところだ、軽く欠伸をしながら背伸びをして立ち上がると、脱衣所に行って浴衣を脱ぎ、自分の服に着替える。
 フロントに浴衣の入った袋を返し、デパートから出て車に乗り込んだ、エンジンを掛け、立体駐車場を降り、由紀の居る病院へ向う。
 休日のせいか昨日病院に向った時よりも少し道は混雑していたが10時前には病院に着く事ができた。
 病院の駐車場に車を停めると昨日買った果物ナイフを同じく昨日買ったお見舞いの果物セットのかごの中に入れそれを抱えて車を降りる。
 病院の中に入ると受付に行って昨日、病室に来た看護婦から聞いた由紀の主治医の先生がどこに居るのか尋ねた。
 受付に居る看護婦は、少し待つように言うと奥の方に置いてあったノートの様な物をめくりながら戻ってきて言った。
「今の時間は1階、そちらの奥にある診療室に居ると思います」
「ありがとうございます」
 それを聞いて示された奥の部屋に向った、失礼します、そう言って診療室の中に入る、中には医者が一人居て少し驚いたようにこちらを見ていた。
「すみません、205号室の東郷由紀さんの事で聞きたい事がありまして、今、少し宜しいでしょうか?」
「え、ええ構いませんがあなたは?」
「あ、私、加藤大樹と申します、由紀さんとは児童養護施設で一緒に暮していて」
「ああ、あなたが、どうぞ、こちらにお掛け下さい」
 そう言うと医者は黒い丸い椅子を差し出した、俺は抱えていた果物セットのかごを脇に置いて椅子に座る、その様子を見届けると医者は続けて言った。
「佐々木さん、知っていますよね? 児童養護施設の、その方からあなたが来るだろうという事を伺っていましてね」
「そうでしたか、それで、由紀さんの状態は」
 医者は顔を少ししかめながら言った。
「いいですか、落ち着いて聞いてください……」
 途中からは聞こえているが頭には入っていなかった。
 由紀は先天的な腎臓の機能障害で、この歳まで生きていられた事すら不思議だと言えるほどの状況だという、治療には腎臓の移植が必要なのだが、血縁者の居ない由紀には、臓器提供者もまだ見つかっていない状況だそうだ。
 もう何年間も方々手を尽くして臓器提供者を探しているが未だに見つかっていない、その意味を深く考えると目の前が真っ暗になり、頭を強く締め付けられている様な感じがした。
「加藤さん? 加藤さん」
 医者が心配そうに声を掛けてきた。
「あ、すみません、ありがとうございました」
 俺がそう言って立ち上がろうとすると、医者は果物セットのかごを俺に手渡しながら言った。
「はい、これ、なるべく一緒に居てあげてください、1人で病気に向き合うのは辛い物ですから」
 俺は何も言わずにかごを受け取ると診療室から出て行った、力の無い足取りで廊下を歩く、由紀の病室には直ぐに向わず、受付の前にある椅子に座ると果物セットのかごを抱えたままうな垂れた。
 由紀は全て知っていた、それでもいつか、いつか絶対一緒に暮す、そう思って病気と向き合い臓器提供者を待ち続けていたのだろう、心配を掛けまいと俺には何も伝えず、1人でどれだけの時間をあの病室で過ごしていたのだろう。
 そう思うと東京で仕事をしていた2年間も、高校生の頃も、一緒に暮していた中学生までの日々すらも、俺が由紀に対してしてきた事は間違っていたように思えた。
 いや、それでも由紀は全て知っていた上で、いつか一緒に暮したい、絶対いつか一緒に暮らすと言ってくれた、ならば俺がそれを信じてやれないでどうする、そう強く思って立ち上がると由紀の病室へ向った。
 病室の前に着くとちょうど昼食が終わったところなのだろうか、看護婦がお盆を幾つか乗せた台車を持って出てきた、俺は看護婦に会釈をするとその脇をぶつからないように気を付けながら通って病室の中に入った。
 俺に気付くと由紀は微笑んだ、さっきまで昼食の時間だったからだろう、昨日とは違って上体を起こしたままの姿勢でこちらを見ていた。
 俺は昨日と同じようにベッドの脇にパイプ椅子を広げて座る、果物セットのかごを棚に置いて由紀に話し掛ける。
「昨日は急だったからひどい顔してただろ? 今日は髭も剃ってきたんだ」
「わざわざありがと」
 由紀は笑いながら応えた。
「果物、食べる? 今お昼食べたばかりだからいらないかな?」
「うん、今はいいや、大樹の方こそお腹減ってるんじゃない」
「そういえば何も食べてないな、貰っていい?」
「いいよ、大樹が買ってきたんでしょ」
「いや、でももう由紀にあげたからね、一応許可して貰わないと」
 そんな事を言いながら棚に置いた果物セットに手を伸ばす、林檎を一つと果物ナイフを取り出して皮をむこうとするが上手く剥けない。
 2年間一人暮らしをしていたとはいえ、食事は全てインスタント食品か弁当を買って済ませていて、包丁どころかナイフすら持った事が無いので当然だった、その様子を見て由紀が言う。
「貸して、あとそこに紙のお皿があると思うから出して」
 俺は言われるまま棚から紙皿を取り出す、由紀は林檎と果物ナイフ受け取ると、器用に林檎を四つ切りにして皮を剥いて紙皿の上に置いた。
「はい、召し上がれ」
 由紀は得意げな顔をしながら言った、俺はその林檎を1つ取って食べながら言う。
「ありがとう、上手だね」
「ふふふ、女の子はね、こういう時の為にこっそり練習してるんだよ、女の子が出来なきゃ格好悪いでしょ?」
「偉いなー由紀は、偉いよ」
 そう言って俺は由紀の頭を撫でる、本当に偉いと思った、俺に心配を掛けまいと何も言わず、一人で病気に向き合って、俺なんか掛ける言葉も見つからず、ただこうしてここに座っているだけだというのに。
「大樹?」
 林檎を持ったまま呆然としていた俺に由紀が声を掛けた。
「あ、ごめん、どうしたの?」
「知ってるんだよね?」
 俺は一瞬躊躇したが答える。
「うん」
 どうしても声が暗くなってしまう、由紀も暗い声で言った。
「ごめんね、黙ってて」
「由紀は悪くないよ、それに絶対いつか一緒に暮らすんだろ? ちょっとした寄り道みたいなもんだよ」
 俺は精一杯声を明るくして言った。
「そうだね、そうだよね」
 由紀も声を明るくして答える、そうだ、絶対いつか一緒に暮らすのだ、由紀は今までずっとそう信じてきた、俺だってずっと信じている、由紀の病気の事を知ったってそれは変わらない。
「ごめんね、変な事言っちゃって、まだ食べるでしょ?」
 そう言うと由紀は果物が入ったかごに手を伸ばす。
「ああ、ありがとう」
 由紀は楽しそうに果物の皮を剥いては紙皿の上に置く、俺はそれを食べる、そして話す、施設に居た頃の事、一緒に通った中学校の事、高校生の時の事を。
 そんな事をしているうちにあっという間に面会時間は過ぎてしまった、昨日の様に看護婦が来て面会時間の終了を告げる。
「また明日」
 そう言って果物ナイフと紙皿を片付けると病室を後にする、病院を出て車に戻ると俺は近くの家電量販店に向った。
 もう閉店時間ギリギリだったがポータブルDVDプレイヤーを買って、次は深夜まで営業している本やDVDが売っている店に向った。
 そこで気になっていた映画のDVDを買って車に戻る、その日は近くの河川敷に車を停めて眠った。