男は暗い森の中を歩いていた、ふらついた足取りで、目的も無く、ただ呆然と、目の前にある木々を避け、草を掻き分け、山道ですらない森の中を、僅かな月明かりを頼りに歩いて行く。
 よく見ると男の格好は山道を歩く為の物ではない、服は黒いスーツだろうか、森の中を歩いているうちに所々引っかかり、ボタンは外れてはだけている、ネクタイもどこかに落としてしまったのだろう、靴だってビジネスマンが履いている様な革靴で、折れて寝転がっている木を超えようと足を高く上げる度に脱げそうになる。
 それでも構わず男は歩き続けている、表情は硬く、息は荒い、月明かりが木々の間から僅かに差し込むだけの森の中を歩いて行く。
 何時間経っただろうか、男がそうして歩いているうちに月に雲がかかる、更に悪くなった視界に男は一瞬足を止めたが、構わずまた歩き出した。
 やがて雨も降ってきた。
「ズ、グジュ! ズ、グジュ!」
 革靴が水を吸って足を着く度に気持ち悪い音を出す、着ている服にも雨が染み込んで重くなり、体に絡みつくようだ。
「ズ、グジュ! ズ、グジュ!」
 男の気持ちを代弁するかのように服は重く、視界は悪くなってゆく、月明かりも殆んど届かなくなり、もう1メートル先の木々すら見えない、それでも男は構わずどんどん森の中を歩いて行く。
「ズ、グジュ! ズ、グジュ! ズ、ドジャァァァ!」
 男は足を滑らせ斜面を滑り落ちた、暗い山の中を明かりも持たずに歩いていれば当然の事だった。
 立ち上がろうともせず、滑り落ちた体勢のまま空を見上げる、真っ暗で何も無い、それは男の心境そのものだった。
 立ち止まると失ってしまったものの重さが伸し掛かり、暗闇に押し潰されそうになって息苦しくなってくる、押し潰されまいとなんとか立ち上がろうとするが、男の体力はもう限界だった。
 いや、限界はとっくにきていて、歩くという動作をただ機械の様に繰り返しているだけだったのだ。
 ふと、雨が木々の葉を打つ音とは違った音が聞こえた気がした、見上げるのを止め、男が視線を正面に移すと奇妙な物が見えた。
 赤い光、森の奥に、1つ、いや2つ、水滴や泥が眼鏡に付着していてはっきりとは見えない、だがその光は確かに見えた。
 男は眼鏡を外してシャツの袖でレンズを拭いて掛け直すと、もう一度、光が見えた森の奥に目を凝らした。
 降り続ける雨が直ぐに眼鏡に付いてしまい、やはりはっきりとは見えない、だが確かに赤い光はある。
 幻だろうか、それとも森に棲む化け物が獲物を見つけたとばかりに寄って来たのだろうか、もしくはあの世からのお迎えか、お迎えだとしたら俺には1つだけだろう、どちらでもいい。
 男はそう思って軽く溜め息をつくと、目を閉じ、そのまま眠ってしまった。