石はなかなか見つからなかった。ムーンは腰をかがめてそこかしこを探し回った。月明かりは木々の影を地面に色濃く落とし、探し物の邪魔をする。それでもムーンは一生懸命探し続けた。辛いとは思わなかった。むしろ、見つけたときの喜び、見つけた石を彼に見せた時の、彼の喜ぶ顔を想像すると、自然と顔がほころんでいた。
 それでも腰が痛くなって、ムーンは上体をおこした。そしてふと、目の前に探し求めたものを見つけた。大きさは人の頭くらい、全体に丸みを帯びた台形で、斜めに白い縞の入った真っ赤な石である。夢使いの村のあたりに分布しているくすんで穴だらけの石ころとは歴然と違うきれいな石である。
 色つやはともかく、この大きさは想像していたのと大分違った。ムーンは石というのだから当然指輪にはめるような小さいものを想像していたのだが、それはまるで墓石のような代物であった。この大きさでは抱えて持っていくにしても苦労である。彼はこれをどうしろというのだろう。ムーンはしばし考えた。しかし、名案はない。彼がそういうのだから、部屋まで担いで持っていこう。ムーンは手を軽くはたき、石の底辺に両手を差し込んだ。石は最近この場所に置かれたばかりのようで、根っこはまた土と馴染んでおらず、すき間に指が簡単に入った。見掛けほど重たくはなさそうだ。ムーンは頭で反動をつけて石を持ち上げた。


・・・憎い・・・


 それは言葉ではなかった。ムーンの肌を通して憎しみの波動が伝わってきた。ムーンは硬直した。それは持ち上げた石の下から這い上がってきた。
 憎悪、それは豚鬼の長バルダバログの屍から生まれた怪物であった。バルダバログが死に際に残した深い憎悪の念を核に、あらゆるうらみつらみが凝り固まって出来上がった純粋な憎悪思念の具象化した姿。憎悪は憎悪を呼び、更にその憎悪が更なる憎悪を産み出して、産みの親バルダバログの持っていたポテンシャルさえ遥かに越える憎しみの塊、それはもう言い訳も対象も持たない暴走した悪意そのものとなった。憎悪と言う名の怪物に生まれ変わったのだ。
 触手の一つ一つはむかでのような多くの足を持った昆虫のようで、それが何匹も一斉にムーンの指先に飛び移り、心臓めがけて一直線に駆け上がってくる感触、その一つ一つは絹糸のように細くはかなく、しかしすべての触手が命を持っていた。ムーンは石を持った手を放し、手を振った。極細の命の糸は何の抵抗も音もなくちぎれたが、ちぎれた糸は全く勢いを失わずにムーンの肩口をなおも這い上がってきた。
 勢いがついた憎悪はムーンが満身の力で持ち上げた石を軽々と吹き飛ばし、噴水のように地面から吹き出した。水柱のように地上に現れて、後から後から湧いてでるそれは、もうか細い糸の集まりではなく、一個の生命を持った生き物になっていた。綿の塊のようでもあり、水蒸気のような気体にも見える、何処が顔で何処が手足なのかさえ判別不能なのに、それが憤怒の形相で迫っていることだけが妙に生々しく実感できた。

 ムーンはなおも這い上がろう、一重でも二重でも多く絡みつこうと身をよじる無数の触手を必死で振り払った。両手の甲でこそぎおとそうと腕を上げると、上げた腕の脇の下のすき間をついて下着の中へ潜り込もうとする。それを押さえようと脇を閉めると首筋から一気に口の中、耳の穴を攻めようとした。
 ムーンはバランスを失って地面に転がった。それでもまだ手を休めることが出来なかった。ムーンは地面をごろごろと転がりながら体のあちこちを擦りつけて一気にこそぎ落とそうともがいた。しかし、その試みは失敗だった。地面を掘って近づいてきた一房の憎悪がムーンの首に巻き付いた。ほどこうとした腕が、足が、順番に巻き取られ、ムーンは地面に固定されてしまった。息が出来ない。目の前が真っ赤に染まる、何処かで額を切った、その血が目に入ったのだ。痛みを感じる暇がない、とにかく空気が欲しい。ムーンは力任せに首を振った。少しでも緩めば一呼吸が出来る。そうすれば反撃のアイデアの出るかも知れない。とにかく空気、今は一握りの空気が欲しい。

 首を締めつける力が緩んだ。勝機が見えたように思えた。ムーンは大きく息を吸い込んだ。それは憎悪の姑息な罠だった。
 ムーンが口を開けた瞬間、憎悪の本体は自分の体を先細りで手首程の太さの房に変形させて口の中へ突っ込んできたのだ。重さも抵抗もない、物質でさえない憎悪の体はムーンの呼吸に乗って喉の奥まで一気に侵入した。一度入り込んだ憎悪は入ったときの様に簡単に出ては行かない。喉の奥でがっちり根を張っている。そして着実にずるずるとムーンの中に入り込んで行った。あまりに無情な光景に目を見張り、ただ口を大きく開けて耐えるしかないムーンの前で、憎悪は自分の体をどんどんムーンの中に滑り込ませていった。

 ムーンの数倍はあろう憎悪の体が手品のようにムーンの中に吸収されていった。息苦しくない、喉に引っ掛かった不快感もない、味も香りもない、体のどこかが膨らんでいくことも、苦しくなることもない。ただ憎悪が入り込めば入り込むほど、胸の奥底から憎らしい漠然とした感情が込み上げて来た。いままで感じていた、憎悪の発する外的な憎しみではない、今込み上げてくるその感情はムーン自身が作り出しているものに他ならない。

・・・憎い・・・

 憎悪の体がすっかりムーンに飲み込まれた時、憎悪とムーンの憎しみの感情は一つになっていた。何が何なのかわからない。とにかく森羅万象ありとあらゆるものが恨めしく腹立たしく不快極まりなく思えてならなかった。ムーンは経験したことのない完全なまでの憎しみに溺れていた。それは、ある種の快感であった。

 とにかくじっとしていられない。このまま一人で憎んでいたら、憎しみで張り裂けてしまいそうだった。どこかへ、憎しみをぶつけられるところへ行かなくては自分がだめになってしまいそうだ。ムーンは振り返り、村の正門に足を向けた。


 ムーンはよろめきながら村の中を歩いていた。怪我をした額がぴりぴり痛むがそれ以外の体調はむしろいい。気力体力とも今までに感じたことのない充実感があった。それもその筈、今のムーンは一人で二人分のパワー、憎悪と二人三脚でいるのである。
 腹の一番深いところからふつふつと湧き上がってくる憎悪の念がムーンを突き上げていた。いっそ吐き出してしまえるならどんなにか楽になるだろうが、そんなことで解消するようなものではないのだ。
 夢使いの村は朝が早い分夜も早い。ほとんどの住人が老人なのだから仕方がない。この時間ならあらかたの人は床に入っていた。

 不幸だったのは村のパン職人リームだった。彼は今年55の誕生日を迎える老人だが村の中では比較的若い部類に入る。夢使いとしては力量は冴えなかったらしいが、料理の腕と人の良さで皆に慕われていた。寝入り前に小用に立った彼は、パジャマ姿で道を歩いていて、ムーンとばったり出くわしてしまった。
「やぁ、ムーン。散歩かい。いい月だな。」
 リームはいつもの様に気安く声を掛けた。月明かりを背にしたムーンの憤怒の形相までは気がつかなかった。
 やぁ、ムーンですって。ふざけるんじゃないわよ。散歩かですって、そんなことあたしの勝手でしょ。月がどうしたって、あたしには関係ないわよ。リームの一語一句がごく自然に腹立たしく思え、なんの抵抗もなくリームを痛い目に合わせてぐぅのねも出なくさせてやりたいと思えた。
 大体この男は前から気に喰わなかったのよ、あたしが七つのとき泥まみれの手で仕事場に入り込んでパンをいじくりまわしたからって、椅子に座らせて説教をしたわよね。それでその後焼き立てのパンをくれたわよね。あたしはあのとき、もうお仕事の邪魔をするのは止めようって決めたのよね。何が憎らしいのかわからないまま、とにかくリームとの思い出の全てが憎らしくてしょうがなく思えてきた。
 そしてついにムーンはリームの大きな腹に裸のこぶしをぶち込んだ。虚をつかれたリームの腹は柔らかく、内蔵の半分位のところまで突き抜けたような感じでこぶしがめり込んだ。リームは酸っぱいものを口からはいてくの字に折れ曲がった。吐瀉物がムーンの肩口にかかり、ムーンは更に逆上した。腰のあたりまで堕ちたリームの頭を膝で思いっきり蹴り上げ、倒れたところを足の裏で2、3度踏みつけた。リームは何か言っていたようだったが聞き取れなかった。聞いたら更に怒りが増していただろう。

 それでも何故かムーンの思考ははっきりしていた。何で自分はこんなことをしているんだろうと冷静に見つめている理性の部分は確かに目覚めていた。理性はもしかしたらとんでもないことをしているんじゃないかなと解析していたのだが、大変だとかなんとかしなくちゃとかいう感情の部分が全部憎悪に乗っ取られていて、当座なにもすることが出来なかった。
 リームが動かなくなった。死んだのかも知れない、気を失ったのかも知れない、どっちなのかは解らなかった。憎悪が少し楽になった。ムーンはこれで方法を覚えた。とにかく気に喰わない者を片っ端から殴っていけば気持ちが良くなるのだ。
 しかし、村の住人みんなを順番に殴っていったんでは埓が開かない。リーム一人殴っただけでこぶしは痛いし服は汚れるし。そこでうかつにもムーンの理性が口を滑らせてしまった。あたしは夢使いなんだ。感情は理性の提案に狂喜して喜んだ。そうだ、あたしは夢使い、やろうと思えばこんな村、丸ごと亡くしちゃうなんて簡単なのよ。



 一流の戦士は決して深く眠らない。一朝事あるときはいの一番に跳び起きてその場に当たる、それが戦士だ。キャリオットは毛布を借りて空の馬小屋に寝ていた。寝て起きて節々が痛まない程度の柔らかさがあれは充分、室内で身も心もだらけ切ってぬくぬくと惰眠をむさぼるのは非実戦的で性に合わないのだ。

 火事だと叫ぶ声と、きなくさい臭い、どちらが目覚ましになったのかわからない。とにかくキャリオットはバネのように跳ね上がり、剣帯にコンクリエーターを差し込んで表に駆け出した。
 轟々と唸りを上げて巨大な火柱がそびえ立っていた。そのとき既に半分かた焼け崩れた家が二、三件、炎は見る間に次々と隣家に燃え移っていた。
「なにをボーっとつったっとるかぁ!」キャリオットは最寄りの井戸に駆け込み、手近な桶をひっつかんで水を汲み上げた。最初の一杯を頭からかぶり、火の粉の飛び散る中に突っ込んだ。
「こらじじい共、ばばぁ共!命がおしけりゃありったけ声を出せ!」
 顔が焼ける。気休めにかぶった水が一瞬に乾いてしまう。髪の毛の先端が焦げて堪えられない臭気を放った。キャリオットは腕で目だけをかばって燃え盛る炎の中をずんずん突き進んだ。黒焦げになった人型を避けてよろける。手をついたベランダの手すりが火の粉をまき散らして崩れ堕ちる。炎の中心近くには生き残ったものは居ないようだ。
 シャツの裾に小さな火が移った。かぶった水の効果がもうなくなっている。燃えた部分を引きちぎる。キャリオットは舌打ちをしてきびすを返した。

 キャリオットが炎をくぐり抜けて戻ると、村の広場には十二、三人が避難していた。ユピト老、ムーニエ老の姿が見える。乾燥した気候、気付きにくい深夜、悪条件が重なった。それにしても火の手は一瞬にして広がったとしか思えない。炎の側に居を構えた者に生存者が一人も居ないのは府に堕ちない。しかし、キャリオットは今考え事にふける程練れていない。再度水をかぶり直す。性に合わないが、もう少し火の手の弱いところならまだ生存者が居るかも知れない。キャリオットは雄叫びを上げて火の海に突っ込もうとした。

 そのとき目の前で爆音が響いた。切り返すのが一瞬遅れたら、キャリオットは炎の柱をまともに脳天で受け止めていたかも知れない。目の前で家が一件崩壊した。燃えるものがなくなった筈の場所が前にもまして火勢を増し、炎が渦を巻いて挑発している。
 キャリオットはくやし紛れに桶いっぱいの水を汲みに駆け戻った。行って帰る間にも炎は分かるほど領土を広げて、生きているものの領域を犯していた。キャリオットは一気に限界まで接近し、炎の壁に水をぶつけた。桶にいっぱいの水は炎の中心にたどり着く前に消え去った。気休めにしかならないじゅうという音さえ爆音のような炎の叫びにかき消されて届かない。
「くそったれ。」キャリオットはきびすを返した、無駄は承知でも今はこれしか思いつかなかった。
「無駄だ。」キャリオットを制する声、この非常時に妙に落ち着き払った平坦な声。悟り切った老人の声だ。キャリオットの中で一本線が切れた。
「無駄とは何事だ。足手まといは余計な口を叩くな。」
「無駄だから無駄だといっている。これは魔法の炎だ、水では消えん。」
そういったのはユピト老であった。キャリオットは問答無用でユピトの胸ぐらを掴んだ。
「偉そうなごたくを並べて、だから諦めろじゃ済まないぜ。きっちり責任は取れよ。」「空気を炎に、変質でも最も危険な技を村の中で使った者が居る。」ユピト老はあくまで冷静だった。
「そんな馬鹿な。自殺行為じゃないか。」
「村の者がそんなことをする筈ない。」
「いったい誰が。」
避難した者達から口々に意見が挙がる。なるほど、この場で有像無像になってしまっては夢使いもただの人間、その点冷静さを失わないユピトは1ランク上なのかも知れない。
「やるしかあるまい。皆の衆、消去の夢じゃ。やれるな。」ユピトは決然と言った。ざわめいた者達がその一言で静まる。
「一斉に?」
「術者の力が未知数では相当の夢を集めなければならん。」
「消去の夢。」キャリオットだけが仲間はずれでついていけなかった。
「夢の領域を強制的に消す。掛けた相手か掛けた方法が解っていればいいんだが、わからないんでは分が悪い。5分5分というところだな。」

 ふん、と不機嫌に鼻で息を抜いてキャリオットはその場に座り込んだ。出番がないのはキャリオットにとって最も不快な状況だった。
 村人達はそれぞれのスタイルで眠りに入った。その間にも火の手はどんどん勢いを増す。睡眠状態の無防備な老人達にも火の粉は容赦なく降りかかる。キャリオットは座っていられなくなって、火に近いものから順番に引きずって火線から遠ざけた。
「世話のやけるじじいどもめ。」

 最初の老人が夢から戻ってきた。手に輪郭のぼやけた真っ黒い塊を持っている。それを掛け声もろとも炎にぶつけると、塊の軌跡の形がすっぽりえぐり取られたように消えた。
「やったか。」キャリオットは初めて見る夢使いの不可思議な力に目を奪われた。がんばれ、いいぞ、その調子だ。キャリオットのこぶしに力が入った。
 しかし、最初の消去は大きな炎の塊に飲み込まれて消えてしまった。次々に眠りから覚めた者が消去の玉を投げつけると、その都度炎の塊と消去の塊の力比べがおこる。最後に夢から帰ったムーニエは彼の枯れたからだの三倍はあろう巨大な消去を頭上に構えていた。ムーニエは軽々とそれを放り投げた。消去は炎に近づくにつれて更に膨らみ、炎を包んで飲み込んでしまった。
「やった!」皆が歓声を上げた。その中でもとりわけ大きな声をあげたのはキャリオットであった。ムーニエが不自由な足を引きずって二三歩ふらふらと歩き、膝を落とした。キャリオットは素早くムーニエの肩を掴んで抱き上げる。
「よくやった、褒めてやる。」
「少し疲れただけだ、お世辞をいうことはない。」ムーニエは皺だらけの顔を歪めて笑った。
「そうか、まぁ、当然の働きだな。」キャリオットも応えて笑った。
 しかし、歓喜の声は尻つぼみに消えてしまった。全員の目がかき消えた炎のその奥に縛りつけられた。


 そこに居たのは、村人全員が周知の人物。村で一番愛されている娘、誰もが我が子同然に思っている娘、ムーンであった。
「おまえらみんな死んじゃえ!」普段は大声など出さない娘である。華奢な声質の、そんな罵声がちっとも似合わないその口から吐き出すように全員にぶつけられた呪いの言葉が、等しく全員胸をえぐった。波乱の人生を生き、夢を操る夢使い達にも信じられない光景だった。
 ムーンは再び”空気を炎に”の領域を、昨日まで慈しんで絶えなかった村人達に向かって投げつけた。それは一瞬の出来事であった。再び村人との間に炎の壁が立ちふさがった。

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このあたりの表現は賛否の分かれるところでしょうね

どれだけ感情をグロテスクに書けるか、がこの作品のテーマでした