男の容体が峠を越したことが知れ渡ると、今度はムーンと男の関係をあれこれ推測する者が現れた。村の誰もが認める奥手で引っ込み思案のムーンだが、彼女とて年頃の乙女には違いない。あの男こそムーンが村人に隠れて逢瀬を重ねた間柄の男ではないか、そうでもなければあの看病は出来過ぎだ、という説がまことしやかに囁かれた。
 老人ばかりの村にたった一人残された年頃の女の子。村の誰もが目に入れても痛くないと思っている娘。ひいき目を差し引いても、気立てが良くて愛らしい娘。たった一人行き遅れたムーンが村と心中する覚悟を決めていたのは村人全員が薄々気付いていた。親心とは複雑なもので、どうにも手放したくないという想いの反面、本人が開き直って居座るとなるとその健気さがふびんでならなくなるものである。
 今まで浮いた話が一つもないのをいいことにムーンの好意に甘えて馴れ合ってきたが、彼女の幸せを思えば、人並みの恋の一つもするべきなのだ。分別をわきまえた老人達がリアリティのない浮き世話に没頭して行ったのも、それが彼らの願望だったからに違いない。
 ムーンの話通り、川の近くに男の装備一式が放置されていた。皮鎧、剣、少なからぬ金貨宝石の詰まった布袋と保存食。男が流浪の冒険者であることがほぼ間違いなく判明した。この段になって村人達は気が重くなった。ムーンの幸せを考えれば平凡な農夫か商人に嫁いで貰いたいのが人情である。夢使いの修行を積んだムーンとテコが合うとしたら冒険者ぐらいしかいないのかもしれないが、最後まで贅沢は言いたかった、という所である。
 しかし、当人同士が燃え上がるような恋(話はここまでエスカレートしていた)をしているのならばいたしかたあるまい。ムーンが目覚めて、村人全員の前でかくかくしかじかと事の委細を話した時には気持よく祝福してあげようじゃないかという所まで話しは進展していた。
 村の主立った者が神妙な面持ちでムーンを訪ねた時、既に憑きものも落ち、平静の間の悪さを取り戻していたムーンは、村人達の思いも掛けない詰問に合って、耳を真っ赤にしてかぶりを振り、必要以上に否定した。村人達は半分安堵、半分がっかりしてため息をついた。以下はムーンが語った事のいきさつである。

 何を期待するでもなく川面をのぞき込んだムーンは、限りなく透明に近い流れの中を、大きな青い物体が流れていくのを見つけてしまった。それは人間くらいの大きさであり、良く見るとまさに人間そのものであった。”助けなければ。”ムーンの脳裏にはとっさにそれしか思い浮かばなかった。
 急流を流れ落ちる人間を助ける方法などとっさに思いつくものではない。元来決断力には自信のないムーンは消去法で答えを見つけた。泳いで助ける、そんなこと出来っこない。物を投げる、なんにも見当たらない。となれば夢を使うしかない。自分が使える夢など大したバリエーションがあるわけではない。捕まえる魔法、そんなもの知らない。止める魔法、それも知らない。では水を使う魔法、それはたった一つだけ知っている。
 ムーンは愛用の銀の匙を右手に握り締めた。握りの部分に小粒のアメジストが埋め込まれたティースプーンで、村の長老格から受け継いだ逸品である。匙は夢をすくい取る為の道具で、夢使いの必需品でなのだ。
 ムーンは呼吸を整えて目を閉じた。内側から鼓膜を突き破るほど激しく鳴っていた心臓の鼓動が瞬時に静まる。熟練した夢使いはどんな状況でも眠れるように訓練されている。ほんの数秒でムーンの意識は現実の肉体を離れ、夢の世界に入り込んでいた。
 夢の世界は流動的でかなりいい加減な所である。例えるならばそれはひっくり返ったおもちゃ箱。ムーンはもう何百回と行き来しているが、そこを性格に描写することが出来ない。現実にあるもの、現実に無いものが乱雑に入り交じって理性的な判断を疎外するのだ。
 そこは形而上的な世界と言えるかも知れない。あらゆる物理界の法則は意味を持たず、意志の力が無限のエネルギーを引き出す。
 普通の人は夢に入るとその流れにただ身をゆだねて漂うことしか出来ないが、夢使いはその中を泳ぎ渡ることが出来る。泳ぐといっても形而上的な問題で、要は動きたいと思う術者の思念が夢の流れを変え、サーフィンボードのように術者を運ぶのだ。ムーンは当座必要な夢を探して夢の海をクルージングした。
 夢の世界の時間の流れは現実世界より遥かに早いが、それでもあまり長居をすると実際の時間をも喰ってしまう。現実で今にも激流に流されてしまう男を救うためにはそれほど時間的な余裕はなかった。
 夢は生き物のように刻々と変化している。しかし夢使いは夢世界の大体の構造を理解し、土地勘のようなものを身に付けている。ムーンは程なく目的の夢、砂漠のイメージを発見した。
 砂漠は文字通りの意味の他にも様々な形而上的エネルギーを秘めている。それは空しさ、孤独のイメージであり、乾きのシンボルでもある。ムーンは手に持った匙で砂漠を一掬いした。
 匙の大きさとすくい取る夢の大きさは全く関係が無い。夢の世界に入ってしまえば匙の大きさは術者の思い通りに変化させることが出来る。それは術者自身の精神的な器の大きさと比例している。
 ムーンは大慌てで現実世界に帰還した。手に持った匙には熱く、透明な砂の塊が乗っている。ムーンはそれを流れ行く男の先に振りまいた。
 夢の砂漠は物理的な常識を無視して遥か遠くに飛んでいき、川面に振り注いだ。
 ぎりぎりセーフであった。男がまさにながれ落ちようとしていたその場所にぽっかりと穴が開いた。しゅうしゅうと壮絶な音を立てて水煙がたち上っている。水の壁が出来ているように見えるがそうではない。3m半径の球体の地域の中に侵入した水が、猛烈なスピードで乾いているのだ。
 焼けた鉄棒に水を注いだ様子に似ているが、その地域には全く熱などない。ただただ単純粋に、水が亡くなっていくというだけの現象が猛烈な速度で起こっているだけなのである。
 男の体は水に開けられた穴の中におっこちていた。ムーンは穴の中に降りて男の体を地上に引っ張り上げた。
 ムーンより少し年上の男だった。比較的長めの硬そうな髪、がっちりした体つきであった。水の中で青く見えたのは、男が青いマントをまとっていたからであった。水中では目の覚めるようなブルーだったが、引き上げてみると、深みのある色合いであった。それはムーンが今までに見たことが無い発色をしていた。マントの下に皮の鎧を着込み、剣帯をしていた。背中に小さなバックを背負っている。
 ムーンは肩を揺すって声を掛けたが全く反応はなかった。頬を触ると水と同じくらい冷たい。ムーンは慌てて胸に耳を当てた。とてもスローで弱々しいが、心臓は鼓動をしていた。
 とにかく暖めなければ。ムーンは男の右腕を肩に回して引きずり上げた。しかし、男のからだは想像以上に重たかった。だめだ、これじゃ村まで連れて帰れない。なんとかしなくちゃ。ムーンは男のマントを外した。それから剣帯、皮鎧と、ただでさえ重いところへもって水をたっぷり含んだ身ぐるみ一切を脱がせた。
 ほとんど裸に剥いて、ムーンは再度男の体を持ち上げた。これならなんとかなりそうだ。華奢なムーンにとって充分過ぎる重量だったが、これ以上軽くする材料がないのだから仕方がない、ムーンは意を決して歩き出した。
 ムーンの周りをうろうろしていたアットは、無情にも男の肩に泊まり、ムーンに更なる重圧を掛けた。アットを責めてはいけない。飛び猫の僅かな知性で飼い主の気持ちを理解しろという方が無茶なのだ。
 ムーンにとって若い男の半裸の姿を拝むのも、逞しい肢体に触れるのも産まれて初めての体験であった。平素のムーンならば耳の中まで真っ赤にしてしまって、とてもやり切れる作業ではない。人一人の命がかかっていると思い、すっかり舞い上がってしまったからこそ出来た芸当であった。ズボンまで剥かなかったのは最後の理性だったのだろう。勿論、この男が予言鳥の言った拾い物であると気がついたのは、ずっと後のことであった。

 男の体は驚くほどのスピードで回復していったが、相変わらず意識は戻らなかった。しかし、生きているというだけで何万分の一にも値する奇跡であることは間違いない。
 彼がこの辺りを探索中に川にはまったというのは考えにくい。この辺りは探索の価値などない不毛な田舎だからである。ムーンが彼を見つけた川は北の山の地下水脈が地上に現れたものである。近所ではまったのでなければ、北の山のどこかから地下水脈を流されてきたということになる。だとすればとんでもない時間仮死状態で魚も棲まない冷水に沈んでいたということになる。水をほとんど飲んでいない所を見ると水にはまったときには既に何らかの理由で気絶していたのだろうが、そうでなければ助からなかったであろう。
 更にあの川には普段では誰も近寄らない。村には井戸があるし、水を作る魔法は簡単なのだ。ムーンに川を眺める趣味がなかったら、男の体はすぐにまた地下水脈に沈み、もう日の目を見ることはなかったであろう。
 目を覚まさないのはある意味で良い傾向であると言える。夢使いに限らず深い眠りは心身に恵みを与える。そのことは他ならぬ夢使いだからこそ知り得る真実である。
 男の看病は村人が交替で行なっていた。元来老人というのは世話好きなものである。順番を奪い合うというわけではないが、看護の係の順番は引く手あまたであった。女は額の手拭いをしぼり替え、寝巻きと布団を定期的に取り替える。男は暖炉に薪をくべ、鍋を新しい湯で満たす。老人達は仕事が終わると例外なく男の寝顔をのぞき込んだ。そうしてあるものは我が子の面影を映し、あるものは若かりし日を回顧するのだった。
 しかし、看護の順番には暗黙の了解があった。ムーンが遠慮がちに部屋を訪れると、さも当たり前のように”あたしだって暇じゃないんだよ、ああ代わりが来てくれてよかった”といった顔でそそくさを席を立ち、ムーンに桶を明け渡すことになっていた。そうしないとすっかり人の目を気にしてしまったムーンが割り込めなかったからである。
 ムーンは誰よりも看護をしたかった。しかし、思春期の娘の心理としては、そういう自分の想いを世間様にひけらかすのはとても大胆なことであり、そんな勇気は彼女にはなかった。だからムーンは第一発見者の義務という口実をフルに利用して、なんとか穏便に事を運びたかったのである。ムーンとはそういう女の子なのだ。
 そんなムーンの心の内など老獪な村人達には見え見えであった。これまでも充分律儀にきちんきちんと日課をこなしてきたムーンが、いつもより半時早く起き出してせっせと仕事を片付け、たっぷり一時も早く仕事をやり終えて、私はもう今日の仕事は終りで退屈しちゃったという風にぶらぶらとして、誰かが看病へ行ったらと言ってくれるのをうずうずしながら待っている様子は、まったく滑稽なものであった。
 ムーンはそこまで苦心してやっと、待ちに待った看病をすることが出来た。期待に胸踊らせる様子を誰にも悟られまいとすればするほど頬に赤みが差してしまうので、ムーンはうつむいて部屋に入る。ムーンは交替の人が部屋を出てから30数えることにしていた。そしてドアの向こうに人の気配がないことを確認してから、やっと桶に手が掛けられた。
 男の顔色はすっかり健康な状態に戻っていた。すっきりした顔立ち、きっと子供の頃は女の子と間違えられただろう。しかし線が細いというわけではない。顔の全体を精悍に見せているのはきっとこのきりっとした眉だ。眉間が狭くて細くて一直線に釣り上がった眉は意志の強そうな雰囲気だ。瞳はなに色なんだろう。まだ見たことがないからわからない。唇は薄めだ。鼻は高からず低からず、すーすーと規則正しい寝息をさせているのはなんとなく可愛い。少し髭が生えて来ているけれど、もみあげの辺り以外はあんまり濃くなさそうだ。髭面というのはあんまり得意でないから嬉しい。このくらいならば毎日かみそりを当てていれば平気そうだ。
 予言鳥が言った拾い物の話は誰にもしなかった。予言鳥のステーキを食べたかった人もいるだろうし、噂を立てられたらますます彼に会いづらくなってしまう。けれどもムーンはこの男に運命の絆を感じていた。きっと彼が私の未来の夫。まるでおとぎ話のような出会い。夢見る頃の乙女にとってまさに理想の巡り合わせではないか。
 もうすぐ彼が目を覚ます。そして自分を助けてくれた命の恩人は誰ですか、と、礼儀正しく聞く。でも、焦ってはいけない。だって当たり前の事をしただけなんだもの。誰かに”それはあの娘ですよ”って言われてからそっと名乗りでましょう。ムーンは勝手にシナリオを作り上げていた。
 彼はきっと寡黙で厳しい人だ。だって長い長い流浪の生活をした戦士なんだもの、それは仕方がないことだ。私の顔を見て”ありがとう、命の恩人”って言ってくれるだろうか。もし言えなくても私は気にしない。眠っている顔がとても穏やかで、静かな波のうねりのよう。眠っているとき人は本性をあらわにするというから、彼も本当は心の広い優しい人なのよ。ただ口下手なだけ、優しさを現わす術を知らないだけなんだ。本当は好意が溢れて喉を詰まらせているだけなんだ。でも、それは私だけが知っていればいいことだ。
 彼は歴戦の戦士だもの。夢使いの女だからってしり込みしないわ。あからさまに顔から血の気を引かせたり、ありもしない急用で飛んで逃げたりなんかしないわ。君を危うくするものはどんなものでも私の剣で切り裂いてやるって言ってくれる。私は精一杯彼のお手伝いをしたい。彼のためだったらどんな危険な土地にでもついていける。だって私は夢使いなんですもん。力は弱くたって彼の足手まといになんかならない。普通の女の子だったらとっても出来ないことだわ。ああ、私は夢使いでよかった。村のみんなが非難したって、私は黙って彼についていく。村を後にするのは辛いわ。でも、それは運命なんだから仕方がないこと。みんなわかってくれるわ。
 ムーンは男の寝顔をみながら、そんなとりとめもない夢想にふけった。予言鳥の言葉が彼女に自信と勇気を与えてくれた。そうでなければこんな自分勝手な想像などするような厚かましい性分ではなかった。

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そうか、(3)の夢を使ってるあたりから話を始めればいいのかな?と気が付いたり

そして(4)はまたも中だるみ気味

うまくないな