村から5分ほど歩いたところに川が流れている。足を滑らせれば命の保証もしかねる激流である。北の山脈で集められた地下水が一時地表に顔を出して出来た川だ。水は夏でも果てしなく氷に近く、青白い魚が棲んでいるだけの陰気な流れである。しかし、ムーンはここが一番のお気に入りの場所で、日に一度はここへやってきた。
 ムーンは川の流れを呆然と眺めているのが好きだった。何故だかわからないが、流れを見つめていると胸の内のもやもやしたものが一緒に流されていくような気がしていた。理性的には納得してはいても、やはり単調な村の暮らしは、人生の絶好調の時期を迎えた乙女に無形のストレスを蓄積させていたのである。何もかも覇気の無いこの辺りで、川の流れだけが男性的に息づいている。当の本人は全く気がつかなかったが、彼女は川の流れにささやかなロマンを感じていたのである。


 その日もムーンはお昼の揚げパンとミルクを持って川辺にやってきた。少し深い夢まで潜れば想像し得るどんな御馳走も手に入れることが出来るのだが、ムーンは自分の手で揚げたパンが好きだった。
 肩にはいつもの様に飛び猫のアットが乗っている。糸のように細くしぼった瞳孔の目をこぼれ落ちそうなほど見開き、ムーンの肩に爪を食い込ませて泊まっている。肩パットが入っていてもアットの爪は痛い。アットはそんなことなどお構いなしに、頭のてっぺんをムーンの首筋に必死におしあてて愛想を振りまく。
 不気味だ、縁起が悪い、足音を立てずにこそこそ動くのが嫌だ、縦長の瞳が気持ち悪い、そんな理由で飛び猫を嫌う者も多いが、なつけばこれほど情を通いあえる動物はいない。ムーンはあらゆる動物の中で飛び猫が一番好きだった。アットは体も羽根も真っ黒で尻尾が少し曲がっている。ムーンが餌をやるようになってから、みるみる太って飛ぶのが大義そうである。魚が大好物なので、親愛の情を込めて顔中を舐め回されると魚臭い。しかし愛敬のある、猫族としてはおっとりした、少々間抜けな性格であった。

 ムーンはアットのお愛想に答えて喉の下をさすりながら、川の流れが一番ダイナミックに見える特等席、近在では一番緑の多い木の根元に腰かけ、お弁当の包みを開いた。
 冬に向かうこの季節にしては珍しく穏やかで、ぽかぽかと温かい日よりであった。山から吹き降ろす風は心地良い程度に冷たく、ムーンの栗色の直毛をさらさらとなびかせた。髪は純粋に機能的な問題だけで素っけなくカットしてある。耳飾りもネックレスもお祭りか、村にお客様を迎えるときくらいしか身に付けない。彼女は化粧もしたこともなかった。
 ムーンはどちらかといえば、着飾ったりするのが好きではない。動きづらいし、汚すと面倒だし、自然なままが一番だと思っている。
 同じ年頃の女友達が聞いたら卒倒しそうな理屈である。ムーンは自分をごくごく普通の女らしい性分だと信じていたが、本人が認識している以上に浮き世ばなれしていたのだ。
 ムーンを見ていると、女は本能で着飾るのでなく、競い会う過程で過激に美しく変身して行くのだということが良くわかる。平凡に生きていけていたら、あり得なかっただろう悲劇に、本人は気がついていない。
 とはいうものの、ムーンの魅力は素地の方が引き立つものだったから、現状のままの方が好都合だったのかも知れない。健康的なはりのある肌、部品の一つ一つは地味で小さな作りだが、全体として整った顔立ちである。素材としてはいい線だが、あまり化粧映えはしないだろう。毎日働いているから無駄な贅肉もなく、均整の取れたプロポーションを維持している。黒と栗色が混じった髪は光の方向によってまだらに反射して、ムーン自身はあまり気に入っていなかったが、決して減点の材料になるようなものではなかった。

 ムーンがなにも付けないパンを一口ほおばった時、翼を丁寧にグルーミングしていたアットの動作がぴたりと止まり、耳がピンと張り詰めた。ムーンは慌てて口に手を当てて、口の中のパン切れを喉の奥に押し込めた。
 臆病な飛び猫のアットは尻尾を膨らませて警戒した。しかし、グルーミングの最中で舌の先っぽをうっかりしまい忘れたアットはの顔つきはなんとも間抜けであった。
 ムーンの耳にも、かさかさと羽ばたく音が聞こえてきた。夢使いの村の周辺は、夢使い以外には全く無価値な土地である。危険な獣やおいはぎ野党の類に出会うことなどあり得ない。その時ムーンは全くの無防備であった。

 しかし、こちらへ向かって飛んでくるのは、どうやらアットより小さな鳥のようであった。この辺りでは珍しいが、全く目にしない訳でもない。群れからはぐれた渡り鳥だろう。取り立てて害を被るような者ではなさそうで、ムーンは胸をなで下ろした。
 どこからやってきたのか定かではないが、ムーンが気がついた時に、鳥は遥か天空から、地表に向かって降りて来ていた。そしてムーンが見つめる視線をものともせず、一直線にムーンを目指して舞い降りて、ムーンのすぐ目の前、一番近い木の枝に泊まった。
 鳥はムーンの背丈より一段高い小枝に泊まった。殺風景な風景に全く溶け込まない極彩色の鳥であった。鳥は鼻眼鏡を掛け、司祭のような金紗の織り込まれた帽子をかぶっていた。羽根の模様ではない、本物だ。鳥は翼の先端を指のように使い、何処をどうしたものか、胸の豊かな産毛の間から黒い皮表紙の本を取り出し、ぺらぺらとページをめくり始めた。

 ムーンは息を飲んだ。膝が震えているのがわかる。これは話に聞いた予言鳥に違いない。世界広しといえどもこんな奇妙な鳥は他にない。
 予言鳥が持っているのは世界のありとあらゆる真実が詰まった記録である。予言鳥は気まぐれで人里に現れて、真実の書の中から真実を語って聞かせる。それはたった一つの質問だけ、しかし答えは過去、現在、未来のどんなことであっても絶対に間違いの無い真実なのだと言われている。一度質問に答えた予言鳥は、飛び去ってしまって二度と同じ人の前には現れず、質問を終えた予言鳥を捕らえた人は有史以来一人もいないといういわつつきの鳥なのだ。

 鳥類独特の皿のような目はムーンの視線と交わったまま動かなかった。相手が鳥だとは言え、実にふてぶてしい態度である。ついに耐え切れなくなったアットは小さく唸ってムーンの肩から飛び降りてしまった。
 ムーンは思いがけないチャンスを目前に狼狽した。ムーン自身は、とっくの昔に自分の人生を達観している。自分がどんな人生を歩むかなんて予言鳥に聞くまでもなく分かり切っているし、聞いて面白いことなんかありっこない。別段過去に気懸かりなことなんてないし、今は今でそれなりに充実している。それなのに、ムーンは頭の中ではこれまでの人生とこれからの人生がくるくる回っていた。
 不謹慎な話だが、予言鳥の肉はとても美味しいのだそうだ。村の年寄りの何人かは過去にそれを食した者もいる。村長のボーボさんや、馬係のハーミュさんは死ぬ前にもう一度食べたいものだと良く言っている。酔ったときなどに時々始まるその話を聞きながら、ムーンも一度味見がしてみたいと、いつも思っていた。ボーボさんは最近体調が優れないし、これを捕まえて食べさせてあげたらきっと喜ぶだろう。
 私には予言鳥の力を借りるような好奇心は持ち合わせていないのよ、と、ムーンは自分に言い聞かせていた。そうして一歩、また一歩と忍び足で予言鳥に近づいていった。
 予言を伝えた後の奇跡のような素早さとは正反対に、質問を聞くまでの間、予言鳥は全く無警戒である。そのふてぶてしい態度は”俺の予言を聞きたがらない人間なんている筈がないだろ?俺を捕まえるだって?せっかくこっちから出向いてやった人生最大のチャンスをおまえはその貧弱な胃袋の満足と引き替えにする気か?まったく救いの無い愚か者だな、おまえは。さぁ、最後のチャンスをやろうじゃないか、その手を引っ込めて俺にお願いしろよ”と言っているかのようであった。
 予言鳥まで手が届く所まで近づいて、ムーンの心は激しく葛藤した。表層意識では理解不能な、深層心理の慟哭が響いた。私はごく普通の平凡な貧相な無欲な女なの。ムーンは硬く目を閉じて手を伸ばした。それでも予言鳥は抵抗もしないでムーンの手の中に納まってくれるような気がした。
 伸ばした手が予言鳥の豊かな羽根毛に触った。あと少し。包み込もうとした指がこわばった。そして、さんざ迷った挙げ句、ムーンは自分の考えとは全く違った言葉を口走っていた。

「予言鳥さん教えて、私は結婚出来るの?」

 しまった、とは思わなかった。ムーンは目を開けて食い入るように予言鳥を見つめた。予言鳥はにやっと笑ったように見えた。そして激しく羽ばたいた。

「縁を結ぶか切るかはおまえの胸下三寸!」予言鳥の態度のひょう変に、ムーンは度肝を抜かれて腕を引っ込めた。
「おまえは今日拾い物をする!拾えばそのうち小さな幸福と、大きな不幸と、縁を手に入れることがあるだろうよ!拾わなくても小さな幸福と、小さな不幸は手に入るさ!でも縁ばっかりは、おまえの残りの人生で見つけることはできないだろうよ!」

 予言鳥は伝説の通り、目にも停まらぬ素早さで遥か頭上まで一気に飛び上がった。そして呆然と見上げるムーンの目が霞んで雲と見分けがつかなくなるまで少しも勢いを衰えさせることなく一直線に舞い上がり、天空へ消えてしまった。

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連投しちゃったw

どのくらいの長さまで許容されるんだろうか

まだ大した事件が起きない

退屈な文章だなおい