なんでブログ始めたの?ブログネタ:なんでブログ始めたの? 参加中
元々、特別、言いたい事や書きたい事があった訳ではない。

日々の生活で忙殺される中で、浮かんでは消えて行く想念は記録されることもなく時間は経過した。

ただ、思いのベクトルは確かに増幅していた。

今回、ブログを開設することに至ったのは機が熟したといえる。

ある特別な人との出会いがあった。

想念の増幅は止まらない。

生活のなかでつのる疑問の数々

日本の世の中、また世界の中の自分の立ち位置

そこからの総合比較

何とか解決するできないものか?

なにを?

苦しみを、

痛みを、

報われる世界に

気持ちいのよい競走なんてあるのか?

真のWinWinとは何か?

インプットしたソースからの

自分というフィルターを通した世界観を書いてみたい。

飽くまでもすべての責任は自分にある、

確かにそれが大前提だ。

しかし、その責任の範疇を越えた所での自分の責任はどうなるのか?

みんな、自分は自分だと思っているが、、、、

違うとは言わないが、その自分の考えはどこから来たのか、そもそもそれを考えた事はあるだろうか?

脳にそういう信号が起こる時、それは、外的な刺激を経て起こることもあるだろう。

だか、直接的な思考以外の想念はどこからくるのだろう、

果たして今までの記憶からだけなのだろうか、肉体と心は一緒に存在しているようにみえてそうではない。

合一を図るために体があるし、合一など無理なのだと悟るため体がある。

思考の思考まで突き詰めてわかるようになることもあると思う。

そういう現実と想念とのギャップが苦しみを生み、まして自分のせいじゃないという思いが解決を遠回しにしている。

自分の責任はというのは、字の中にあるように責めているのではない。

コントロールするする主体はかならず自分にあるということだ。

外部からの情報やその記憶からほとんどの反応がもたらされているのなら、そのインプットは意識の有無に関わらず起こるのであり、だからこそ、情報の取捨選択が必要になる。

よりよい人生にしたいという思いは、やりたいことをやりたいようにできるという事だ。ただし、書くまでもないが、誤解される方がいるといけないので、書くとひとに迷惑をかけないというのは必須の条件だ。

自分の責任、自分が主体のコントロール、そうやって、解決、改善、前進して行くべきだが、人というのは、相身互い、これからの世の中は多いに相互扶助していくベキだと思う。

脳の深い部分にアプローチする事で、今までの悩み、例えばトラウマなどはなかった事にできる。

これは、医者と同様、カウンセリングというかたちで外部からの力だ。

そういう情報があるのを選択するのは、自分だから、他力本願といえど自分のコントロールの範疇だ。

自分で解決できないことは、人様に相談したりして勧めるのも、一考だ。


そういう訳で、思うところを、書いてみたいと思う。