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because the day

東京在住フリーライター兼ミュージシャンの日記。

ここ何年かで微妙な気温の季節が短くなってしまった気がする。


ゆっくり季節が変わらない。


最近まで極寒だったのに、次の日は暖かくなり気がつけば春という感じ。


少し肌寒い中を薄着で歩くのが好きだった私としては、人生の楽しみがひとつ減った気分だ。


特に去年は夏から秋を吹っ飛ばして冬になった気がする。

暑い!~寒い!までの~の季節の移ろい期の時間が短かった。

寂しいなあと思う。


昔から日本人はこの季節の微妙な変化に愛着を持っていたと思う。

その証拠に微妙な季節をあらわす多くの言葉がある。


それを象徴するのは24節気というものだ。


 1年を四季に分け春夏秋冬をさらに6つに分けた24の期間の、それぞれのスタートの日が二十四節気。もとは中国から入ってきたもので、太陰暦(旧暦)と太陽暦(新暦)の要素をミックスして、季節を正しく示せるようにしている。


例えば1月6日が小寒(本格的な寒さが始まり、今から徐々に寒くなる)

夏は小暑(本格的な暑さが始まる)→大暑(1年中でもっとも暑くなる)というように変わっていく。


季節を24にも分けて、言葉まで作っている日本人の感性はやっぱり情緒深い。

昔の日本人が、この季節24個の微妙な変化を全て体感で理解していたかはわからないけど、よくもまあそんな面倒なことをしたなあ、と思う。

さすがドM国家の先祖である。


まあ、農耕民族に必要なことだったのであろう。

微妙な変化を大切にすることが、命に直結していたのだと思う。

今でこそ最近暖かくなったなあとのほほんといえるが、当時は季節に移ろいを見極めることに本気だったんだろう。


現代は、科学の発展と先祖の経験が伝わってきているので、こういった感覚を研ぎ澄ませる必要がなくなってきている。第6感がなくなっていっていると言われているのは、こういったことも由来しているのかもしれないなあとふと思った。



それにしても今日はあったかいなあ。ヒートテック、セーター、ダウン、その上に登山用のジャケットを着たから、外を歩いていると汗がすごい。




飯舘村。
現在、計画的避難地域に指定され、放射能汚染の数値はチェルノブイリ以上と言われている。

しかし、本来は周囲を美しい山々に囲まれた自然溢れる土地だ。
原発事故が起きる前は、自然の恵みを活かし、積極的に村の魅力を発信していた。
「までい(じっくり)」という生活スタイルを提唱し、半農生活の素晴らしさなどを訴えてきた。
その中に皮肉にも、環境省からの補助を受け、エネルギーの自給自足を目指した「までいの家」という
プロジェクトもあったという。
「飯館村は寒い地域なので、太陽光やバイオ燃料を作れるモデル的なエコハウスを建築しました。
特に、ここは75%が森林なので、バイオ燃料は大変効率的だと思ったのです。モデルハウスもできたので、いずれこの村に広げていきたいと思っていました」

エネルギーの循環を目指し、うまくいけば村内のエネルギーの大半を再生可能、しかも自給自足でまかなえるようになっていたかもしれない。
これは、前衛的でもあり、理想の循環だった。

この国は、資源に乏しい。
現在、原発反対の世論が高まってはいるが、それに変わる確固たるエネルギーを提示できないのも事実だろう。
太陽光は土地の狭さがネックとなる。
地熱発電は、十分なマグマがあるが、技術がおいついてないと言われている。
火力発電に依存すると、いずれ石油が枯渇してしまう可能性があるから危険だ。

要するに、エネルギーの核をつくるのは難しいという事で、各方法に分担するのが
脱原発を目指すのであれば必要だと思う。
もし、都会は無理だとしても、各田舎町がエネルギーの自給自足に成功すると、政策の核、即ち原発がなくても十分なエネルギーが作れるはずだ。
もちろん国が多額の補助金をだす、ということが前提になる。


原発によって、未来を失いつつある村から、エネルギー問題についてのヒントを学ぶということは、なんと皮肉なことだろう。しかし、この事故が本当の意味でこの国の未来を考えなおす機会となっているのは間違いない。






震災後、気仙沼を訪れた。
その甚大な被害に声を失った。

海へと続く静謐な小川からは、家の屋根が荒々しく顔をだし、車は不自然な形で砂山に刺さっていた。骨組みだけになってしまった家の中には、がらくたと化してしまったかつての日常が渦を巻いていた。

多くの衝撃的な現場を目にしたが、現地の人々は前をむきつつあった。
その生命力に感嘆とし、勇気さえももらった。

しかし、彼らの現実は想像を絶する。
特に漁業の問題は、深刻なようだ。
「この街の産業は8割が水産業で占めている。大きな漁港だったし、シーズンの時は、船乗り達でにぎわっていた。楽しかったよ」
震災後、まだ漁港の復興の兆しは見えていない。
職にあぶれている人は多い。
「先が見えないよ。私は銀行員だけど、みんなお金に困っている」

今回の震災の被災地は港町ばかりだ。
おそらく他の地域も同じような状況だろう。


さらに、フクシマの原発からは、多量の汚染水が海に漏れているという。
もし、東北近海の魚から放射性物質が発見されると、人々の暮らしはどうなってしまうのだろう。


震災直後に岩手の人が言っていた言葉が強く頭に残っている。
「私たちは、海に囲まれて、海とともに育ってきた。今、大変な状況だけど美しい海さえ残っていれば
いくらでも蘇ることができる」
これは、いかに日本人が海とかかわり合って生きてきたかを表している言葉だ。

日本人は世界一魚を食べ、世界の漁業料の7分の1を占めている。
その歴史は大変古く、米文化が日本に到来する以前から日本人は海の幸を享受していた。
縄文時代の貝塚からは、釣り針などの釣り道具も見つかっている。
これは、日本に食料がなかった、という理由も考えられるが栄養源に富む海流に囲まれていて、おいしい魚が捕れるという単純な理由も含まれている。
現代人にとっても、魚は欠かすことのできない栄養源であり、味である。

海は私たちにとって、食物連鎖の原点だ。
命は全て「繋がり」続けている。
そして、互いに交わり、助け合い、紡がれて行く。
天災の後に起こった人災。
それは、被災地の人々だけの問題ではもちろんない。



この震災は人間社会の「繋がり」についても考え直す機械をくれた。

被災者は他者を思いやり、寄り添い合って生きる姿から、日本人特有の助け合いの精神の素晴らしさも再確認できた。

直後に起きた電力不足。
少しの節電が被災地の為になり、私たちは色々な物を共有し分け合って生きているということを痛感した。

日本は島国である。
小さな国土の中、私たちの祖先は繋がりを意識せざるを得ない状況で生きてきた。
日本再建にむけて、大切な事はこの「繋がり」であるのは間違いない。
もう一度見つめ直してみたいなと思う。