今日のテーマ
『人不而不慍、不亦君子乎』
人知らずして慍みず、また君子ならずや。
人に認められようが認められまいが、気にしない。それが君子というものだ。
なかなか厳しいことをいいます。
人から認められるということは、自己形成の上で必要であり、
正当に評価されないというのは非常にやりきれない思いにさせる。
教育でも「褒めて伸ばす」といわれるように、
褒めて存在価値を認めてあげることが当然必要のように言われている。
しかし、孔子はそんなことは気にする必要はないという。
確かに、認めてくれなかったとしても、自分のなかに確固たるものが形成されていて、
自分自身のために生き、自分自身のために努力できるような
強い人間であればそうあれるのだろう。
そして、実際そうであれば強くあれるのだろう。
実際、この前に塾生にそういう話をした。
簡単ではないが、やはり自分に自信をもち生きていくことは必要である。
そうなれるように、自分の骨格を見つけていく作業が教育なのだと思う。
すこし考えてみるに、
政治の世界においては、国民からの、メディアからの批判を気にしていたら
政治改革などできるものではない。
実際に正しい方向というの分からないものではあるだろうが、
一時の痛みを気にして、
将来の道を閉ざしてしまうことは非常に残念である。
代議制民主主義として選挙という仕組みがある以上、
選挙に当選しなければ政治家はただの人であり、生活を維持していくことすら難しくなる。
そうである以上、選挙人である地域住民の目を気にせざるおえないのであるが、
それが君主のあり方として正しいのかという問題提起をしているように思える。
君子とはそうではなく、
国家の未来を見据えて行動できる人物でなければいけないというのだろう。
実際、教育も同じであり、
子供に嫌われることを恐れていれば、教育はできない。
いわなければいけないことはいい、ダメなものはダメだといえなければならない。
子供に勉強をさせる以上、
それ以上に教師が勉強することは当然であるし、
子供を指導する以上、自分自身がまっとうでなければならない。
人格の練磨を常にし続け、魅力ある人間になる努力をしつづけなければ教師であるとはいえない
嘘をつく教師など論外であり、
勉強の嫌いな教師は教師である資格がない
子供の可能性を否定する教師は教師と名乗ってはいけない
子供は教師を映す鏡である
それを肝に銘じて教師でありつづけたい
私はそう思っている。
だから、基本的に厳しい!!
甘いことは言わないし、
嘘は言わない。
だけれども、
私は子供たちの可能性を信じている。
以上のことは、会社の社長も同様である。
社員は社長の鏡であり、
社長は輝いていなければならない。
かっこいい社長になろうではありませんか!!
そして、社員の可能性を最大限に引き出していきましょう。
教育のプロに私はなりますよ!!!