Loving The Alien (Love 異性人David Bowie)
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私自身はあまりマメじゃないのでブログは書かないと思いますがDavid Bowie好きな女の子、仲良くして下さいね゜+.(・∀・)゜+.゜



Bowie自身が選曲したiSelectが最近のお気に入りでよく聴いています。
BowienetにBowieの解説があったので貼ってみました。

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今回のCDコンピレーションに際し、私は自分でも飽きの来なさそうな12曲を選んでみた。いわゆる有名曲はほとんどないが、今でも自分のコンサートでよく歌われている曲が多い。たいていは私が歌うのだが。 さて、まずはこのヒット・ナンバーから始めよう


1 ライフ・オン・マーズ


いとも簡単にできた曲。若いということは気楽なものだ。よく晴れたある日、公園の野外音楽堂の階段に腰かけながら。Sailors bap-bap-bap-bap-baaa-bap。自己喪失気味の(決して‘格言的’ではない)ヒロイン。中産階級のエクスタシー。私は靴とシャツを買うために、ベッケンハム・ハイ・ストリートまで歩き、ルイシャム行きのバスに乗ったが、このリフがどうしても頭から離れなかった。そこで二つ目のバス停で飛び降りると、サウスエンド・ロードにある自宅まですっ飛んで帰った。私の仕事場はだだっ広いスペースに、寝椅子が一脚と、バーゲン品のヌーヴォー調のスクリーン(聞かれたら“ウィリアム・モリス”と答えることにしていた)、バカでかいフリースタンディングの灰皿、そしてグランド・ピアノが一台しか置いていなかった。まずピアノで作り始めたが、その日の午後の遅い時間には、すべての歌詞とメロディーが完成していた。素晴らしい。リック・ウエイクマンが二週間後にやってきてピアノ・パートに装飾音をつけ、ギタリストのミック・ロンソンが自身最初にして最高のストリングスのパートを作り出した。この曲は今では私のライヴでも定番のひとつである

2 スウィート・シング/キャンディデット/スウィート・シング


ジョージ・オーウェルの「1984」の劇場上演権を彼の未亡人から獲得するのに失敗したものの、すでにこの作品をもとに3曲もの曲を書いてしまっていたため、すぐさま方向転換してこのアイディアを“ダイアモンドの犬=黙示録以後の世界を象徴するような暗黒都市ハンガー・シティに住みつく、錆びたスケート靴を履いたパンク少年たち”というコンセプトで手を加え直すことにした。後にステージでも上演されたこの作品の核となったのが、この「美しきもの」~「キャンディデイト」~「美しきもの(リプライズ)」で、ウィリアム・バロウズのカットアップ・メソッドを用いて作った作品だ。この手法は、まずいくつかの異なる主題に言及したパラグラフを一つか二つ書き、そこからストリー性をもったリストのようなものを作る。次に文章をそれぞれ4つか5つの文節に分断してごちゃ混ぜにしたら、今度はそれらをもう一度つなぎ合わせるというものだ。するとこのようにとても面白いアイディアのコンビネーションが生まれる。これらはそのまま使ってもいいし、あまりに収拾がつかなくなりそうだったら、全く新しいセクションを書き直すこともできる。私が目指していたのは、クルト・ワイルとかジョン・レチーのような人間がいかにも住んでいそうな放蕩きわまりない世界、あるいはそういった雰囲気を持った世界を創造することだった。エニド・ブライトンのベッケンハムとヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニューヨーク、この両者をつなぐ橋。とりあえずノディは抜きにして・・。「美しきもの」のメロドラマチックな低音の合間を行きつ戻りつしながら「キャンディデイト」のダーティなサウンドに突入し、そして再び「美しきもの」に戻るというアイディアは、とてもそそられると思った。これと言った理由はないが(今さら?)、’70年代半ばからこの歌は歌っていない。自分が出演したロック・ショーの中でこれほど忍耐や自制をもって音楽的な舞台構想に臨んだ作品は他になかったし、自分がやるとなれば話は別である。もともと伝統的なミュージカルの様式にこだわるつもりはなかったし、会話がいきなり歌になってしまうことには、かなり疑念を持っている方だ。それをやってのけられる数少ない一人がおそらく、「アサシンズ」や「ジョージの恋人」で知られるスティーヴン・ソンドハイムだろう。だが私は会話はあっても少しの方が断然好きで、「スウィニー・トッド」などはその代表例であるし、ベンジャミン・ブリテンのオペラ「ピーター・グライムズ」や「ねじの回転」、そしてクルト・ワイルの「マハゴニー市の興亡」も同様である。これらのような作品を作れたらなんと素晴らしいだろう

3 ザ・ビューレイ・ブラザーズ


これまで吸ったことのある唯一のタバコが安物のビューレイだ。’60年代後半なら誰もが知っているこのアイテムを、私は自分の姓の代わりに用いることにした。この曲は単に兄弟のことを歌った歌ではないから、身分の本姓を使うことで間違った印象を与えたくなかったのだ。とは言っても、この曲に潜む幾重もの亡霊を匂わせる以外、私は歌詞を伝える術を知らなかった。当時のレコーディング状況の記憶はほとんどない。ただ遅い時間だったことだけは覚えている。 他のミュージシャンたちは夜になってみんな帰ってしまい、私とプロデューサーのケン・スコットの二人だけだった。アルバム『ハンキー・ドーリー』の他の曲は、スタジオをブッキングした時点ですでに書き終えてしまっていたが、この曲はすぐにレコーディングできる状況になるギリギリまで書かずにいた。すでに昼間のうちにかなりの歌詞を書きためてあったが、夜になると何かが私の心をかすめ出し、距離感と不安定さを感じずにはいられなかった。私はおそらくビューレイのタバコの中に何かを入れて吸ったのだろう。その時か何か感情的なものが押し寄せたことを、私ははっきり覚えている。とにかくその一晩ですべてが仕上がった。そして最後の締めは、ケンジントン・ハイ・ストリートにあるソンブレロか、あるいやワードゥール・ストリートのボロボロのラ・シャッセ・クラブで一杯やったのだろう。クールだ

4 レディ・グリニング・ソウル


マイク・ガーソンの奇抜なピアノで幕をあけるこの曲は、19世紀末のミュージック・ホールを彷彿とさせるエキゾチックなナンバーだ。バー全体に充満した煙の向こうに、ポーゼズ・プラスティーク(訳者註:ダンスやパントマイムなどで彫像のようにゆっくりした動作をとる技術)が今も見えるようだ。観客、カスタネット、そしてたくさんの黒いスペイン製のレース・・・ほぼそれだけ。セクシーだろう? そしてマダム、あなたのために。これはかれこれもう30年以上会っていない若く美しい娘のために書いた作品なのだ。この曲を聞くと、彼女はもちろん今でも20代のまま。この歌はあなたをじらしながら過去へと導いていくだろう。とても近く、手を伸ばせば届きそうなほどに。そして再び亡霊のサウンドが・・

5 ウィン


これは言わなくともわかるように、ウィニフレッド・アトウェルに捧げた作品ではないが、そうであれば良かったのにと思わないこともない。なぜなら彼女こそ真の勝者だから。1950年代のイギリスでは、10歳の子供がブギウギやラグを聞くとすれば、まずウィニフレッドが演奏するピアノだった。故郷トリニダードでブルースやR&Bを聞いて育った彼女は、今は主要空港になっている場所に駐屯していたアメリカ人のG.I.相手に演奏していた。ウィニーのレコードは、黒人アーティストのものとしては初めてイギリスでミリオンセラーを記録した。彼女は最高だった・・。いや、この曲は・・・ええと・・・勝つことについての歌なのだ。デヴィッド・サンボーンがサックスを吹いている。当時彼はサウンド・エフェクトの分野を実験的に行っていた。私としてはその方向を追求してほしかったが、彼は有名でお金持ちになる道を選んだ。だから彼は勝者だったということではないかな?

6 サム・アー


’70年代にブライアン・イーノと共作した静かな小作品。あなたがオオカミでもない限り聞いてもすぐにわからないだろうが、後ろで聞こえるのはオオカミの遠吠えだ。彼らは人間とよく似ている。美しく、おぞましい。イメージとしては、スモレンスクからやっとの思いで退散するナポレオンの敗軍。モスクワ進軍の際に置き去りにされたまままの、埋葬されていない同志の死体を見つける。あるいは、ニンジンの鼻をつけた雪だるま。あるいは、足下でクシャクシャになったクリスタル・パレス・サッカー・クラブの入場券。まさに悲愴感ただよう世界観。自分なりのイメージを注ぎ込んでくれたまえ。来週には最高のものが見れるだろう

7 ティーンエイジ・ワイルドライフ


そう、あれは朝も遅い時間だった。私は考えていた。「新曲、新鮮なアプローチ。そうだロニー・スペクターをやろう。今日一日だけのErsatz(=代用品)だ」。そうして出来上がったのがこの作品。今でもこの曲に魅せられているし、いつだって「モダン・ラヴ」の2倍は好きだ。さらにステージで歌い甲斐のあるナンバーでもある。自分でも陶酔できるセクションがいくつかあるし、ライヴで挑戦するにはもってこいだ。皮肉にも歌詞は、人生についてちょっとした意見を述べているだけで、大して深読みしているわけでもなければ、近づきつつある不幸を予言しているような内容でもない。歌詞は弟、もしくは若い頃の自分自身に向けたものだったかもしれない。このトラックでは、偉大なるロバート・フリップと私の長年の友人カルロス・アロマーという二人のギタリストが、お互いちょっとした火花を散らしている

8 レピティション


この楽器に対する古典的な固定観念のおかげか、サイモン・ハウスが奏でるヴァイオリンの音色は、生粋のゴート人のそれそのものだ。リズム・セクション全体に浮遊するある種のマヒ感覚。さらにある事件を証言するというよりは、まるでリポートを読み上げているような無表情なヴォーカルで、私はそれを強調しようとしている。この曲はもともと簡単に出来ると思っていた。‘妻の虐待’というかなり由々しき問題を短いドラマ形式で書くことにした私は、この似たような行為を何度も繰り返すという実例をいやというほど知っていたからである。もっと早く気づけばよかったが、自分では誰かがある一人の女性を一度のみならず何度も殴るなんてことがあり得るとは想像できなかった

9 ファンタスティック・ヴォヤージ


まことに古風な曲。’50年代のヴァラエティ・ショーの面影が強く感じられる。(今さら言うのも何だが、もし私が’60年代半ばのローリング・ストーンズの立場だったら、間違いなく“サンデー・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム”の回転ステージに立っていただろう。彼らは自分たちの反逆的なイメージにそぐわないとして、このヴァラエティ番組の最後に他のゲストと共にこのステージに上がることを拒否したが、米国のエンターテイナーのジュディ・ガーランドもこの回転舞台に上らなかったという記事を読んだ時は驚いた。気が動転するというのがその理由だったそうだが、そんなことはつゆ知らなかった。もし自分だったら、はにかみながらジミー・ターバックの横をおずおず進んでいったことだろう。1955年にこの番組の放映が始まった時、私の母親がやたら興奮していたのを覚えている。我が家では1953年のエリザベス女王の戴冠式を見るために父がテレビを買ったが、それはすぐさま新しい世界をもたらしてくれた。ガイ・ミッチェルなどはその最たるもので、母は彼が画面に登場して「シー・ウエアズ・レッド・フェザーズ・アンド・ア・フラ・フラ・スカート」を歌うだけでまるで女学生に戻ったようだった)。この曲(「ファンタスティック・ヴォヤージ」のことだ。「シー・ウエアズ・レッド・レザーズ~」ではない)のコード展開は、これが収録されているアルバム『ロジャー』では2種類のフォルムで登場する。まずはこの曲で、そして「ボーイズ・キープ・スウィンギンング」(言っておくが、男性用ドレスのこと)に発展した形で、テンポもトップラインのメロディも変えてある。後にアルバム『スケアリー・モンスターズ・アンド・スーパー・クリープス』でも再びやってみたが、大したことはなかった。考えれば、ガイ・ミッチェルだったらもっとうまくやっていたかもしれない

10 ラヴィング・ジ・エイリアン


曲の初めに何か目新しい言葉を持ってきたいと思っているが、この曲では思いつかなかった。聞けば驚くかもしれないが、この曲は、決して小さな緑の火星人を歌った歌ではない。ああ、これも常習性というべきか

11 タイム・ウィル・クロール


過去レコーディングした曲の中で、いつかもう一度レコーディングし直したいと思っていた作品は多い。この『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』からのナンバーもそんな一曲だ。ここでは本物のドラムの代わりにドラム・マシーンを使い、コオロギのようなストリングスを加えてリミックスした。私はこのショートランド諸島訛り(訳者註:ソロモン諸島のひとつ)のニール・ヤングみたいなニュー・ヴァージョンがとても好きである。ああ、あのアルバムの残り全部やり直したいくらいだ。1986年4月のとある土曜日の午後、スイスのモントルーにあるスタジオでレコーディングしていた私は、何人かのミュージシャンたちと一緒に休憩をとっていた。とても天気のよい日で、私たちはアルプスと湖を望む外の芝生にいた。するとラジオを聴いていたエンジニアがスタジオのドアから飛び出してきて、こう叫んだのだ。「ロシアでとんでもないことが起きているらしい!」。スイスのニュースによれば、ノルウェイのラジオ放送を傍受したところ、巨大にうねった雲が大陸方面から移動してきており、それらは雨雲ではないとさかんにラジオで呼びかけているという。これがあの恐ろしいチェルノ ブイリの事件をヨーロッパで最初に報じたニュースだった。私はさっそくロンドンにいる友人のライターに電話をかけてみたが、彼はまだ何も聞いていなかった。このニュースが大々的に報道されるまでそう何時間もかからなかったが、それまでのわずかな時間、自分が重大な事件の数少ない証人の一人であるという、ある種閉所恐怖症的な感覚に陥った。その後数ヶ月間というもの、どれ一つをとっても歌になりえるほどの狂気によって呼び起こされた複雑な感情の渦が、頭の中を占拠していった。そして私はそれらをすべて「タイム・ウィル・クロール」に放り込んだ。あの最終センテンスの韻の中に

12 ハング・オン・トゥ・ユアセルフ(ライヴ)


ジギーとスパイダーズではすでに約50回のイギリス公演をこなし、この1972年10月20日のサンタモニカ公演は、アメリカでの12回目の公演ということになる。ブートレッグなみの音質と、ドラムスとベースの音が時おり入ってしまっているものの、バンドを初めて観客に披露する時の我々の興奮を感じてもらえればと思う。ブロムリーの興行の年老いた大根役者と同じくらい当然のように、私はステージの中央に立っていたが、実際は死にそうなほど緊張していた。この日初めてアメリカのラジオで我々のライヴが放送されることになっており、かなり重要なステージだったのだ。その晩我々はかなりトチッてしまったが、熱意とプライドは10フィートもの高さだった。大一番は時に事態を改善するものだ。驚くことだが、当時の私のマネージメントを行っていたメインマンは、18ヶ月間というスパイダーズのライフサイクルを理由に(実際はその後も)、ジギーが大旋風を巻き起こしていたヨーロッパで我々が一緒に演奏できる手続きを何ひとつ行っていなかったのだ。ツアーもできない。コンサートもできない。パリにおいてさえだった。私にはどうしても理解できなくて、当時はずいぶん惨めな気持ちになったものだが、実際のマネージメントの大変さを知った今では、当時私のマネージメントがいかにナイーヴで行き当たりばったりだったかがわかる