脱大衆。工藤新一による最後の推理。 -2ページ目

脱大衆。工藤新一による最後の推理。

私はヒトであり、君もヒトである。

 君はなぜ喚くのか。

君は僕に嫉妬し喚く。

これは事実であり、異論は認めない。

君はいつもヒトに憧れている。

事実のみをここに記事として残しておく。

大事な話をしたい。

君はなぜ喚くのか。

確かにボクには買えないものはない。

正確には、買いたい物は買える。

そもそも欲しくない物は買う必要が無い。

金を払うという行為は価値に同等でなければいけない。

本来はそうであろう。

しかしながら違う事も多い。

私はある商品を売り続けている。

それは目に見えないものかもしれない。

望んだ生活は実現したが。

そこに望んだ世界は無かった。

君はなぜ喚くのか。

子供じゃあるまいし。

君はよく私にこう話す。

君は天才だ。

いいや、ボクは天才じゃない。

そもそも才能を測る事は出来ないのであるから。

天才は存在しない概念だ。

同じ環境、教育、感性で育つ事が出来ないヒトには

天才という概念は存在しない。

というよりも、あまりに安易に使用するのはお粗末だと言う事。

学問がヒトより上手くできる事が天才だろうか。

金を多く持つ事が天才であろうか。

そもそもセンスの問題である。

学問はヒトが作った歴史である。

数字や地動説、相対性理論、宇宙の存在、言語。

過去のヒトがセンスで生み出した歴史である。

それを簡易化し、大衆でも使用でき

理解できるようになっているだけである。

であればセンスは学問である。

学問はセンスである。

学習能力や発想力はセンスである。

そのセンスは学問をつくり

世界を変える。

君はそれでも喚くだろうか。

過去のヒトがセンスで生み出したこの世界に

たった一人君だけが例外的に

人生を全うできないことがあるだろうか。

仮に明日なんらかの現象により、生命が失われても。

あなたが存在したこの世界は存在し続ける。

ヒトがこんなにもたくさんいるこの世の中で

あなたはセンスを信じないのか。

喚くのはもうおしまい。