渋谷にある金王八幡宮に参拝
第73代堀河天皇の御代、寛治6年正月15日(1092)鎮座
桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による長元の乱(1028-1031)において功を立
軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山(武甲山)に納め八幡宮と崇め奉った。
武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役(1083-1087)の源義家の軍に300騎余を従え一番で参向し、
仙北金沢の柵(秋田県仙北郡金沢)を攻略。
その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜る
義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の日月旗を乞い求め
月旗をもってこの地に八幡宮を勧請した。
重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、
当八幡宮を中心に館を構え居城とし、渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めた。
これが渋谷の発祥ともいわれている。
御祭神
・応神天皇 (品陀和気命)
御社殿は、徳川2代将軍秀忠の世、慶長17年(1612)に青山忠俊と春日局によって造営
竹千代(後 家光)9歳、弟国松(後 忠長)7歳の頃、3代将軍は国松であろうとの風説が行われた。
竹千代の乳母春日局と守役青山伯耆守忠俊はこれを憂い、伯耆守は氏神として信仰していた当八幡宮に熱心に祈願をこめ
春日局もまた護摩料金八十両を奉納
その後、家光の具足始めの儀が行われることとなり、これ神明の加護と伯耆守は数多の材木を
春日局は金百両を寄進し社殿を造営。
金王丸社(金王丸御影堂)
御祭神
・渋谷金王丸常光
渋谷平三重家の子で、永治元年(1141)8月15日に誕生した金王丸
重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けると、
金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢を見て立派な男子を授かり、
その子に金剛夜叉明王の上下二文字を頂き「金王丸」と名付けた。
金王丸17歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣大功を立て、平治の乱で義朝が敗れたのち出家し
土佐坊昌俊と称し義朝の御霊を弔った。
頼朝とも親交が深く鎌倉幕府開幕にも尽力。
義経追討の命を受け、文治元年(1185)10月23日夜、百騎ばかりを率いて義経の館に討ち入り勇将らしい立派な最期を遂げた。
頼朝は、金王丸の忠節を偲び、鎌倉の館よりこの地に桜樹を移植し「金王桜」と名付けた。
御影堂には、保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に残した木像と
金王丸が所持した「毒蛇長太刀」が収められている
御嶽神社
御祭神
・櫛眞知命(くしまちのみこと)
・大己貴命(おおなむちのみこと)
・少名毘古那命(すくなひこなのみこと)
・日本武尊(やまとたけるのみこと)
御嶽神社は、「開運」「商売繁昌」の神として、特に客商売を営む人々の信仰を広く集めており、
本社は武州御嶽神社。
大鳥大神と称える日本武尊は、古来より武道守護の神として武士の信仰を集めていた。
ここに祀られたのも、この地が武門の誉れ高き渋谷氏の居城であったからと考えられている。
社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった「香雪神社」のものを移設したもの