改憲論議が続いている。憲法では戦争放棄を謳っているが、世界情勢は信義に基づいて営まれているわけではないから、非武装は非現実的だ。日本の平和は常に脅かされており、自分自身で守るためには武力が必要で、自衛のための武装は憲法に違反はしていない。日本への攻撃を察知した段階で敵基地を攻撃し、敵の戦意を挫く必要があり、そうなると憲法の戦争放棄は邪魔だから、もっと効果のある憲法に改めるべきだ、というのが改憲論の主張である。これがいかに危険で、そもそもの発想の始まりから誤りである。誰しも平和を望むであろうから、平和のためと云えば、反対者はいないだろう。その盲点を突くように平和のための軍備、という言葉で警察予備隊から自衛隊となり、武器も徐々に攻撃的なものになってきた。核兵器を持つべきだとまで発展している。

 社会が平穏であれば平和だと感じるように、人々は慣らされてきた。平穏とはかけ離れた毎日を過ごしている人々も大勢いるのに、関わりたくないという傍観主義や、長い物には巻かれようという大勢順応の姿勢が見て取れる。このような平和の捉え方とは対極的に、憲法には、平和は作り出すものであるというより積極的な考え方が示されている。改憲論者の平和観は、周辺の成り行きを見て態度を決めようという日和見主義的あるいは追従主義的平和観で、憲法の求める平和とは異質である。彼らは憲法の平和観をないがしろにして誤った平和観をさらに進めようと目論んでいる。相手が攻撃してきたらどうするというが、急に攻撃など仕掛けてくるわけもない。包囲するように周辺国に同調して威圧するなどという誤った外交方策では、危機を高めるだけであり、そのような誤った平和観で我々は、憲法の平和とは相反した方向に導かれようとしている。憲法の平和は闘わなければ得られない。闘いとはいっても、デモや署名活動などの外に向けた活動だけではなく、自分自身に問い掛ける闘いである。自分の平和観が正しいのか、本物の平和とはどうあるべきか、自分自身への不断の問いかけと自省である。