さて、バレンタインウィークの月曜日。今週はなぜバレンチヌスの殉教伝説が真実味を持っているか、解明していきたいと思います。サイコロジストの世界では、ストレスランキングを扱うことがあります。サイコロジストのマイヤー博士が生活と健康との関係をまとめた「ライフチャート」を作りました。年々それが改良され、今では生活ストレススコアとして一般的にも知られるようになりました。結婚のストレスの度合いを50(ここでは43ですが)としてそれを規準に人生の出来事を数値化しました。主な物を挙げてみましょう。
1位 配偶者の死 87 2位 肉親の死 79
3位 大きなケガや病気 78 6位 離婚 71
9位 不貞行為 69 13位 失業 64
15位 親しい友人の死 61 16位 大災害に遭遇する 59
32位 結婚・再婚 43 32位 転職 43
49位 定年退職 28
中には51位で交通違反切符を切られる22ポイントなんてのもあります。結婚は人生で幸せな出来事に違いはないのですが、いざ生まれも文化も違う二人が一緒に生活を始めるのはストレスフルなことなのでしょう。大金が突然入るというのもうらやましい話ですが、これもストレスチャートではかなり上位を占めています。サイコロジーは科学なので何でも数値化するのが好きです。こうして見ると誰もが一つや二つは遭遇しそうなライフイベントがあることが分かります。しかもそれが数値に関連付けられていてストレスを定量的に知ることができるのはストレスマネージメントをする上で参考になります。そのなかで上位を占めている出来事はやはり死です。これは看取る側のストレスですが、死に往く本人はどんな心理状態なのでしょうか。
これを研究した人が精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスで、死に関する認知を科学的に明らかにした先駆者です。彼女の著した「死ぬ瞬間」はベストセラーになりました。死にゆくプロセスを五段階で説明しています。
第1段階 否認と孤立
余命わずかという事実に衝撃を受け、間違いだと否定する。やがて周囲から距離を取り孤立する。
第2段階 怒り
自分が死ぬという事実が理解できた。なぜ自分が死ななければいけないのか。死への反発が怒りに変わる。
第3段階 取り引き
信仰心がなくても、神や仏にすがり、死を遅らせてほしいと願う。神仏と取引をする段階。
第4段階 抑うつ
神仏に祈っても死の回避はできないことを悟る段階。悲観と絶望に打ちひしがれる。
第5段階 受容
人はいつかは死ぬ。生命が死んでいくことは自然なことだという気持ちになる。人生の終わりを、静かにみつめることができるようになり、心に平穏が訪れる。
多くの人はこのような段階を経ると考えられています。死を受容することが理想なのかは疑問があります。それが最終的な着地点とは考えにくい。しかし、看取る側から言えばこれがいいのでしょう。本人にとってもいいのかも知れません。穏やかに命の最後を迎えるのは確かに望ましいことかも。他の動物では最後の最後までのたうち回って苦しみます。静かに看取られて亡くなっていくのは、死にゆく人の看取る人たちへの最後の配慮なのかも知れません。この五段階はプロセスと言うよりもどのような反応を起こすのかと言い換えた方がより正確なのかも知れません。
この研究では第三段階に神仏との取引があり、精神科医らしからぬ内容があります。それでも彼女が係わった臨床ではこのような事例が沢山あったのでしょう。事実は事実として残しておきたかったのでしょう。確かに人は必ず死ぬことは分かっているし、その終着駅に待っている方がいらっしゃるのはいいことだと思います。それが救い主であろうが阿弥陀如来であろうが、だれも待ってないって少し寂しくなります。原文ではここはわずか3ページしか記述がありません。この辺が科学と宗教のボーダーラインなのでしょう。いずれにしても彼女の研究は終末期のケアをどのように進めるか、今でも研究のランドマークになっています。
最近テレビで俳句が流行っているようなのですが、バレンタインディーを詠んだ俳句の多いこと。少し見てみましょう。
急ぎ逝く バレンタイン日 忘れ得ず
常世とや バレンタインの 日を前に
一首目は2月14日夫なのか知人なのかがお亡くなりになったのでしょう。二首目は友達が永遠の旅に目前に旅立ったのでしょう。バレンタインディの俳句と言えば圧倒的に女性が死を題材に読むことが多いようです。それも昭和女子というか、令和のおばあさまです。どの句を見ても若いときのときめきや熱情を詠んだ句は皆無。それも事実をありのままに写実的に表現しています。もともと俳句は正岡子規が唱えた写生なのでそれでいいのかも知れませんが。昭和は64年まであり長い年号でしたが、その前半にお生まれになった方々の一句は控えめで何かしらユーモラスで自虐的な内容もあります。逆に妻を亡くした夫の一句は?
妻逝きて バレンタインの 日を忘れ
これは炎上しそうな一句です。と言っても、忘れたのはバレンタインの日で、決して妻を忘れたわけではありません。生前はいつも妻からチョコをいただいていたのでしょう。今はそんなこともない。配偶者がいないという喪失感と毎年巡ってくるバレンタイン日も忘れつつある自分を静かに見つめている句です。