NHK Eテレの「100分de名著」という番組をご存じでしょうか。

 

 古今東西を問わず「名著」と呼ばれるものを取り上げ、25分×4回=計100分で紹介する、という番組です。

 

 その「名著」のあらすじだけでなく、作者の生い立ちも追いながら、その著作が書かれた時代背景も含めた読み解きがされます。

 

 かなり前になりますが、そのなかで「ファーブル昆虫記」が取り上げられたとき、次のような逸話が紹介されました。

 

 ファーブルは貧しい家庭で育ちながらも教師になり、細々と生活しながらも生物、特に昆虫への興味がつきることはありませんでした。

 

 アヴィニョンの高校で物理の教師となったときのこと、一つの論文に出会います。

 

 それは、昆虫学者レオン・デュフールの「狩り蜂の生態に関する論文」でした。

 

 当時の昆虫学は、標本を作って分類することがメインで、生きた狩り蜂の生態を調査したデュフールの論文は、画期的なものでした。

 

 ファーブルは、当時の様子を、昆虫記のなかで次のように記しています。

 

 新しい光がほとばしり出た。

 

 それはまるで 私の精神への天からの啓示のようであった。

 

 生き物の構造と、特にその働きを内奥にまでたちって研究することなのである。

 

 私はその見事な模範を感動でいっぱいになって読んだ

 

 しかし、ファーブルには一つ疑問がありました。

 

 デュフールの論文では、狩り蜂は幼虫のエサとなる昆虫を捕まえて殺し、巣の中に運び入れます

 

 しかし、そのエサとなる昆虫は日にちが経っても腐ることがありません

 

 そこでデュフールは、殺した後に防腐剤のような物質を、昆虫の体内に注入するのだ、と考え、論文に表していました。

 

 しかし、ファーブルはこの防腐剤を注入する、ということに疑問をもち、それが本当なのかどうかを調べます。

 

 様々な実験の結果、エサとなる昆虫を殺すのではなく、運動神経の神経節を麻痺させることで、生きながら動けないような状態にして、巣に運び入れることで、何日も腐らないのだ、ということを明らかにするのです。

 

 番組内でも、司会の伊集院光さんが、次のように言っています。

 

 それもすごいですね。

 

 だってね、自分の中で、もう目が見開いちゃうほどの衝撃的なものって、盲信してもおかしくないじゃないですか。

 

(でも)そこはそれ。何かひっかるものがある。っていう

 

 まさにその通りだと思います。

 

 常に人は「是々非々」の態度でいるべきだ、と僕は思っています。

 

 良いものはいい。悪いものはダメ

 

 ここなんです。

 

 ある人が言った意見に感銘を受けたからと言って、その他の全ての意見まで賛同する必要は無い。

 

 逆に、一つの意見が自分のものと異なるからと言って、その人自身を否定する必要も無い。

 

 ましてやその人を神格化したり、人格を否定するなんてのは、あり得ない。

 

 そしてこれは、テニスの理論にも当てはまります。

 

 だからこそ、僕はテニスの理論において「信奉者」が生じる意味が分からない

 

 以前にも書きましたが、ある程度の経験を経たプレイヤーというのは、なんかかんかの「理論」を持っています

 

 それが誰かの受け売りであろうと、独善的なものであろうと(笑)。

 

 そしてそれらの理論は、少なくともその人にとっては「成功体験」に基づいたものですし、必ず「一理」はあるはずなのです。

 

 ただし「一理しか無いかもしれない」ということも常に頭に入れておかなければならない。

 

 たまたま、その部分が上手くいったからといって、全ての理論が正しいわけではないのです。

 

 だから「信奉者」が生じる余地というのは、本来、科学ではあり得ない

 

 ファーブルが、感銘を受けた論文でさえ、その内容の一部には疑問を持ったように。

 

 そしてその疑問が正しいかどうかを確かめるために、さまざまな手法を用いて実験したように。

 

 特に皆さんの周りに誰かの「信奉者」がいたら、「なぜか」を訊いてみてください

 

 その「なぜか」が答えられない人、もしくは、その「なぜか」までもが受け売りだった場合、その人の言うことは聞き流すのが一番です。

 

 物事を、自らの頭で検証せずに信用する人を、信用してはいけない(笑)

 

 みなさんも、ファーブルになりましょう