「釈迦といふ いたずらものが 世にいでて

 おほくの人を まよはするかな」

 

 

 

これは室町時代の禅僧、一休宗純禅師が詠んだ道歌だ。

 

修行中の宗純は、純粋で真面目な禅僧だった。

 

だが、悟後の一休は破戒僧となり、酒場と女郎屋に通い詰めた。

 

 

 

にもかかわらず庶民から愛され、大徳寺の住持まで務めている。

 

彼が人気者になったのは、権力に阿る僧侶達を徹底批判したからだ。

 

一休は、釈迦や経典でさえも、人心を惑わすものと断じている。

 

 

 

仏教や禅のみならず、あらゆる宗教は、他人が開いた道でしかない。
 
大切なのは、己の手で真理を掴む事である。

 

他人を崇拝したり、教えの通りにするだけでは、真理は掴めない。

 

 

 

一休禅師はこの道歌で、篤い信心とやらに冷や水をブッ掛けたのだ。

 

「頼るな、縋るな、祈るな。そんな事をしても悟れんぞ!」

 

そう高笑いする禅師の姿が、目に浮かぶようである。

 

 

存在、認識、そして価値。

 

これが純粋哲学の三大テーマだ。

 

だが、存在は誤認であり、認識は意識の働きに過ぎず、価値は無価値だ。

 

 

 

まず、我々が認識した物体は、この世に実在しない。

 

何故なら、認識した物体と、実在する物体は、全くの別物だからだ。

 

我々が認識した瞬間、価値や評価によって、別物に変わってしまうのだ。

 

 

 

意識が意識するだけなら、実在する物体は何も変わらない。

 

その代わり、実在する物体を、理解する事は出来ない。

 

そして人間は、理解が及ばない物が、大嫌いなのである。

 

 

 

だから、その優秀な頭脳で、あれやこれやと理屈を捏ねる。

 

捏ねて捏ねて、矛盾に苦しみ、やがて不可知だと言い始める。

 

いわゆる哲学者達は、有史以来、延々とこれをやってきた。

 



ポケットの中には、ビスケットが一つ。

 

ポケットを叩けば、ビスケットは矛盾する。

 

叩いて、叩いて、収集つかず。

 



正解は、ポケットの中から、ビスケットを取り出す事だ。

 

二元論の世界から、自分自身を出してあげなさい。

 

ビスケットが無くなれば、叩く物も無くなり、全てが丸く治まる。

 

 

 

最後に残るは、意識の問題。

 

こればかりは難しいぞ。

 

何故なら、意識は、自己ではないからだ。

 

 

 

さあ、意識こそが自己の本性であると、証明してみせよ!

 

これぞまさに、悪魔の証明だ?! 

 

自己とは何か? 私とは誰か? 悩める若者達よ、探求したまえ!



ボーディ・スヴァーハー!

 

 

 


あらゆる差別は、比較から生じる。

上か下か、優れているか劣っているか。

だが、比較を止めると、何も分からなくなる。



試しに比較を止めてみよ。

上下、優劣、善悪正邪の区別が出来ず、気持ち悪くて仕方なくなる筈だ。

我々は、ただの1分でも差別を止められない、悲しい生き物なのだ。
 


差別するなは、比較するな、理解するなと言っているのと同じである。

つまりは無茶振りなのだ。

当然の事ながら、自分が出来ない事を、他人に要求するものではない。



他人を「差別主義者」と罵る者に聞いてみたい。

「君は一度も差別をした事が無いのか?」と。

差別されている者も、必ず差別をしている。それが人の業なのだ。



その業と本気で向き合えば、僅か三歩で地獄行きだ。

その地獄を知らぬ者は、自分を棚に上げて生きている。

差別や比較をしないのは、悟りを開いた者だけと知るべし。

 

力と刺激を欲する者は、まず数を集め、次に質を高める。

 

自分の力に納得して、もう大丈夫と思ったら、急に大人ぶり始める。

 

しかし、所詮は付け焼刃なので、そのうち必ずボロが出る。

 

 

 

平坦な人生を歩んできた者は、遅かれ早かれ人生に退屈する。

 

他人を見捨てて保身に走り、金で快楽と興奮を買おうとする。

 

そして晩年、つまらん人生だったと嘆くのだ。

 

 

 

真実を求める者は、あまり数を頼らない。

 

故に、数に圧されて負けたりする。

 

そこから這い上がってこそ、本物だ。

 

 

 

自分の人生に集中したい時、他人の存在は邪魔になる。

 

ひとり静かに楽しむ時に、人は成長するものだ。

 

試練など求めずとも、そのうち向こうからやってくる。

 

 

 

おだやかで幸せな日々も、毎日続けば飽きるし疲れる。

 

変化が無ければ、平和の尊さは分からない。

 

人の認識は、実に贅沢に出来ている。

 

 

何が何でも生きようとするか、それとも美しく死ぬか。

 

人間は、この2つのタイプに分かれてしまう。

 

どちらが正しいという事は無いが、どちらかを選ぶ事にはなる。

 

 

 

死を軽んじる者は潔さを忘れ、生を軽んじる者は無責任になる。

 

ただ生きて死ぬ事の、何と難しいことか。

 

確かなのは、我々はいつか必ず死ぬという事のみ。

 

 

 

負の側面から目を逸らす者は、死と向き合う事も出来ない。

 

命を過大評価する者は、死と向き合う事を悪と考える。

 

だが、いくら声を上げようとも、死が遠ざかる事は無い。

 

 

 

人は必ず死ぬからこそ、次世代に希望を託すのだ。

 

人は必ず死ぬからこそ、より良いものを残そうとするのだ。

 

人は必ず死ぬからこそ、物語が必要なのだ。

 

 

 

肉体が滅んでも、物語が受け継がれていれば、人は死なない。

 

その物語を踏み躙るのは、真の意味での殺人だ。

 

無自覚な悪ほど、質の悪いものは無い。