Rainbow House

Rainbow House

父である通称イルカちゃん。名前の由来はofficeアシスタントのカイルから。彼と20年振りの親子の再開。互いに失った時間、止まった時間、明日はどれだけ取り戻せるだろう?

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さて、なかなかイルカちゃんと寄り合えない問題が多かったが、


今朝、大きく寄り合うことができてきた。簡単なことでできた。


武術と同じことだった。”相手を掴むには懐に入る” イルカちゃんの


気持ちを掴むため、こちらから入っていったほうが早いと思った。


これまでは気持ちの投げかけがほとんどだった。 


「色々無理言って気を使わせたなぁ」と彼に言った。


もちろん手段だけでなく、その思いは真にある。


親子でさえ計り得ない”貴方なり”があるからだ。




これまでは”彼なり”に対して、”自分なり”を表現して歩み寄ろうとした。


でも彼だって自分なりを守りたいに違いない筈。その最大の防御として


受け流しか、攻撃で彼自身を守っていたのだろう。


でも今回は意外にもあっさり、いつものガハハの高笑いで


「えぇ~んや!え~んや!お互いさまやないか!」と言ってくれた。


いやいやぁ~、これにはビックリあっさり。彼も歳をとったのだろうか?


これまでずっと「そうや俺の言うとおりやったやろ!」だったのに。


今回も一発それが来るかと思ってた。




まぁ今まで、俺も周囲の人も苦悩してきたことは事実だが、それは彼として


知らなくてしたこと、知らないことを自分の基準で罪のようにとらえては


いけなかった。 互いのそれを、認め、許し合い、寄り合わねば。




そして一度回り出したら拍車がかかるもんだ。


脱ぎ散らかされてた玄関の靴も、揃えてて置くようになってくれた。


読み散らかされてた新聞も、纏めて片付けてくれるようになった。


食い散らかされてた食卓も、俺が片付け安いようにしてくれるようになった。

時期が温かいからかもしれないけど、朝は窓を開けてくれる。


共有空間と区別して、自分の部屋のドアを閉めてくれるようになった。




彼も男、それも昔の人、言葉で表現するのは苦手なはずだ。


言葉の返事に期待するより、行動の表現を読み取ってやらねば。


こっちもそれに答えて信頼関係で繋げよう。


確実に以前のダークハウスはレインボーハウスに変わりつつある。




次への課題は、心のしがらみへの解決。

レインボーハウスから、虹の架け橋を用意しておきたい。








そろそろこのブログも少しずつ締め括りに入らなければいけない。


何故、一日は24時間と限られているのだろう。




仏教用語の”空”


”得るも得ないもない”と云う意味もあると学んだ。自分の人生にも被る。




常に孤独でありたいと願ってきた。


何かに恵まれたら、必ず生命の危機に立たされる。


生命が助かれば、必ず恵まれたものを失う。 


宿命なのか、性分らしい。


19の時、喉を開く病気にかかって以来ずっと繰り返す。


それまでは、減ることや、死を恐れていた。


でも何度も死に損ない、大切なものを失えば、


次は増えていくことの方を求めたくない。




20年振りの父との生活の再開の為、この家を建てる計画が始まった。


ちょうどその頃、人生で最も貴重だと思える程、素晴らしい友人もできた。


順調に運び、家も建った。 でも、妙にそれを警戒していた。


やっぱりだった、ガンが来た。 また死の淵に立たされる。


そして又、助かってしまった。




療養中、とっくの昔に父と離婚していた母が家のことを手伝いに来てくれた。


そして先日このようなことを聞いた。 有ろうことかそんな時、家では母を


失いかける出来事が起こっていた。絶対に有ってはならないことだ。


やっぱり俺が生き残った後は、大切な何かが崩れ失う。




二度と母をこの危険なイルカハウスには立ち入らせない。


ショックと言えばショックだ。でも、もうこういうことに慣れてしまっている。


元々親族の手で母子を引き離されたことも有った、深い傷口程麻痺だな。


まぁ、母とは又繋がっていけるだろう。何と言ってもその人から生まれた。


問題はイルカちゃんだ。今は未だ、血縁によって繋がっているにすぎない。


彼との親子愛はどれだけ感じ合うことができるだろう?


この家で彼とどれだけ、繋げていけるだろう。




不満ばかりが募るが、本当は感謝すべき所もあるはずだ。


彼の口癖「有ればいいんや!」も、ある意味正しい。


変われないのなら変わらないでいい。


逃れられないなら逃れないでおこう。


ここで書けば書くほど不満に目が向くようになってきた。



これではいけない。リアルな世界でもっと眼を向ける所が



ありそうだ。足りてるところに満足すればいい。


サービス業、人を招くにはむかないけど。


ねぐらとしてなら十分なはずだ。



ここの範囲でやっていけばいい。




そろそろここを閉める準備に入ろう。

何か足るを見つけて綴って。













さて、これまで強いエゴの塊だった。


言葉を巧みに使い、裏で友人を操作してまで自分の


作りたい世界を作ろうとしてきたほどだった。


俺の友人もどれだけ傷つけられていただろう?






”聞く”


昨日、何やら違う感覚を得た。


これまでの会話の中で幾多の考え、提案をしてきたが


云々なく彼の考えこそ絶対だった。話の中味は全てが


自分の思い、考えの投げかけばかりで、違う考えを


聞き入れない人だった。いわゆる”対話”を知らない。



でも昨日、駐車場を良くするための話をしてみた。これ


まで何度もその話をしたが、「こうだ!」と言えばそれだけ。


又同じ答えだろうと思ってた。最初は「NO!」だけだった。


でも、もう三度話すと「なんでや?」との問いかけがあった。


普通の会話なら当たり前・・?の流れだけど、何か違和感。


一瞬それに気づかなかったけど、歩み寄れる間ができたと


感じた。まぁ普通なら聞くとは当たり前のことなんだろうけど。




”他者に迷惑をかけてまで今にこだわる必要はない”、と


駐車場の芝生の移動に結論した。ここまで来るのに約一年。


重い時間だったが、進展できたとなれば十分だ。


それに何より心配や配慮の負担が減って感謝だ。




ここで学んだことが一つある。俺も少し手段を変えるべき


だった。話しかけはしてきたが、問いかけからというのをして


あげればよかったかもしれない。そして、早い解決を求め


すぎてたんだろう。結局、彼と似た要素が有ったんだな。




人の考えは”百人百様・千差万別”。それぞれ独自に思考する


権利はある。”書は言を尽くさず・言は意を尽くさない”ともいう。


言葉が伝わってきたとして、その人の思いまで伝わってくる


ものでもない。そして自分が言葉を発したからといって、心の


中まで伝わるもんでもない。長く感じたこの約一年も、じっくり


向き合う時間として当たり前だった。一気にそれが解決したとして、


それこそ一時的な結果論に過ぎない。そんなのは直ぐに脆く、


崩れ去っただろう。それより俺がそれをもっともっと踏まえて


あげていれば、もっとスムーズにいっていたのかもしれない。




人生を育てるには木々と同じ時間が必要だと聞いたことがある。


物事一つ育てるにも、きっと米を育てるくらいの時間は必要なんだろう。


実際、家を建てる時がそうだった。