本光寺住職のダラブログ -4ページ目

本光寺住職のダラブログ

これからのお寺は変わらなければ。「人間ダラといわれて一人前」を掲げる住職の、御門徒さんとのふれあいブログ、略して「ダラブロ」


 前回のだらメルで丁度100号。早速、読者からお祝いのメールを戴きました。うれしかったです。本当に読んでいる人がいるんだ、と改めて実感できました。
さて、寺では毎日、本堂で朝のお参りをします。これを晨朝(じんちょう)勤行と云います。全員で掃除を済ました後、香部屋に全員が集まり衣に着替え、この勤めの始まる直前に、一同行儀良く正座をして朝の挨拶を交わします。これは言わば朝礼のようなものです。その日の晨朝勤行の習礼(しゅらい:勤行作法の事前確認)や、新たな連絡事項の伝達などをします。これを毎日の日課のように繰り返し行ないます。

 挨拶といえば、幼い頃の子供たちは誰にでも元気よく大きな声で挨拶ができたのに、この子供たちも段々と成長するにつれ、それが高校生にもなると大半が無愛想になってしまうようです。それは何故でしょう。人と人が会えば挨拶を交わす、ということは当り前の礼儀なのにそれができない。逆に、今日この当り前のことができる子供の方が目立ってしまうとは、全く奇妙な世の中になってしまいました。
いつだったか、ある中小企業の社長さんが「うちの会社では、ここ数年、新採を見合わせていたのですが、暫くぶりに今年採用した高卒の男の子のお陰で、随分と会社全体が明るくなりましてね。その子が朝、出社してきますと、先ずとてつもない大きな声で『おはようございます』と皆に挨拶をしてくれるのです。高校時代は剣道部だったそうでして、入社当初はその大きな声に皆がびっくりしたものでしたが、私などは今ではその子が朝出てくるのが楽しみでね、待っているくらいなんですよ」と、ニコニコな顔でおっしゃっておられました。

 この大きな声で挨拶をするといえば、私が学生時代は空手部だったのですが、入部当初、校舎の屋上で14人の一回生が整列させられ、先輩から訓示があり「今日からお前達の使う言葉は次の二つだけでよい。それはオッスとゴッツァンデスだ。分かったか!」と言われ、この時思わず「オッス!」と、皆の口から自然に出てしまったのです。それからは、大学校舎内外を問わず先輩を遠くからでも発見すればその時点で大きな声でまず「オッス!」、すれ違うときにも、そこで更にまた大きく「オッス!」、街の通りであろうが、市電車の中であろうが、便所の中であろうが所構わず「オッス!」でした。練習中に先輩からドツかれれば「ゴッツァンデス!」、しごかれても、先輩のオナラの匂いを嗅いでも、いたずらされても「ゴッツァンデス!」でした。
こんな理不尽なことを経験した私ですが、今となってみればただの笑い話でしかありません。


住職の口癖  北陸大谷高校を、小松の大事な学校にしたい。

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いつだったか、或るお家の法事が終わって、お別れの挨拶を交わし玄関から外に出ると、家の数人の人たちも一緒に見送りにと出て来られて、そこの婆さんがまた丁寧に頭を下げてお礼を言われるものですから、私も恐縮しながらそれ相応に応えておりました。この家の前は広々した露地になっていて、そこには手入れをしたばかりのような小奇麗な庭園があり、その脇には畑がありました。

丁度その時、その畑や庭で遊んでいた4、5人の同じ年頃の子供たちが私たちの所に駆け寄って来ました。多分、孫たちなのでしょう。その中の一人の男の子が「帰るんか」と婆さんに抱きつきながら尋ねました。
「おいね。あんた達も、ご院さんに“有難うございました”とお礼を言いまっしね」。私はそのような会話を聞きながら自分の車に乗り込むと、別の男の子が大きな声で「でっけぇー!」と、車の中の私を指差し叫びました。

すると、その子より年下の子が「ほんとやー、豚さんだー!」って言うのです。私は一瞬ムッとしたものの、その場は何も聞こえていない振りをしておりましたら、婆さんは余程ばつが悪かったのでしょう。「あら、何てことを、面目ねぇ。さぁ、さぁ、あんたらあっちへ行こう(行きなさい)!」と、追い立てるように両腕を横に振りながら言っています。

さぁ、何故に私が豚に見えたのか、それは頭が大きく、顔が色白だからだと思います。私の車はレヴューといって、軽四のような小型車で、大柄な私がその車に乗ると、どうもそれがアンバランスでもあり、外から見ると車内が大きな顔で一杯のように見えるらしいのです。そう云えばあの時、婆さんは下を向いて、自分の口に手を当てていましたなぁ…。全く、子供の目は正直なものです。

さて、これもいつ頃だったか、私は北陸大谷学園の代表者として、地元銀行の主催の会合に出席するために、私の車で会場に着いたところ、会場の入口近くでは赤い棒を持った人が二人、来場車両の誘導をしている様子です。私の車を見つけたその内の一人が、ウィンカーを出しているにも拘わらず、目の前で両手でバッテンのサインをして無理矢理止められてしまいました。

そして、私に怪訝な顔で「こちらにご用でしょうか?」と窓越しに覗くように訊くのです。でも、その後、漸く中に入れてもらえて分かったのですが、周りの止めてある総ての車が、所謂、黒塗りの車や、高級車ばかりだったのです。それは、サラブレッドの中にポニーがいたようなものでした。

住職の口癖  辛抱する木に、花が咲く。



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寺では毎朝、梵鐘を撞きます。この鐘は、朝のお参りの前に「そろそろお参りが始まりますよ。さぁ、本堂にお集まり下さい」と、寺周辺の人たちにお参りの時刻を知らせるために撞くもので、この時の鐘を「集会(しゅえ)の鐘」といいます。だからといって、いつも近所の人がこの鐘の音を聞いてお参りに来る訳ではありません。でも、近所の人の中にはしっかり聞いている人がいるもので、「今日の鐘はダラダラしとった」とか、「せわしなかった」「数がいつもより少なかった」「撞き出す時間が何分遅かった」「昨日の人と今日の音色が違う」などと、様々な感想や批評を寄せてくれます。

梵鐘
さて、もう、四半世紀も前の話なのですが、私が北海道に居た時分に、地元の新聞にこんな笑い話のコラム記事が載りました。とある町の駅長一人の小さな駅で、ここの駅長が毎朝、近くの寺の鐘を聞いてから起きるのが習慣になっていました。というのは、丁度鐘の音を聞いて起きると、朝一番の業務でこの駅を通過する電車を見送ることができたからです。この寺の住職は殊に几帳面な人だったらしく、いつも寸分違わず時計のように鐘を撞き出すので、この駅長は普段から住職をすっかり信用し切っていました。

ところが、ある日の朝、駅長は電車が通過していく大きな音で突然目が覚めました。「あっ、しまった!」と、慌てて飛び起きたものの間に合わず、駅長はプラットホームに出て、遠くに去って行く電車の後姿を寝巻き姿で眺めていましたが、その時「あの、くそ坊主」と思わず口走り、一言文句を言おうと腹立ちまぎれに勢い寺に押し掛けました。すると、寺に来た駅長の話を聞いた住職は申し訳なさそうに「そりゃ、すまんかったのう」と詫びて、今朝は二日酔いでどうしても起きれなかった、とその訳を話したのでした。

小松では朝の鐘つきをする寺が少ないようですが、奥深い山中でなら兎も角、街の中では寺の鐘も不規則に、鳴ったり鳴らなかったりすると、周辺の人たちにはきっと耳障りな騒音に感じることでしょう。梵鐘は寺には付き物ですし、日常的にその鐘の音が寺の周辺の人たちに耳慣れておれば、殆んどの人には抵抗感はない筈です。また、それが独特ののどかな寺町情緒をかもし出し、そして不思議と人の心にゆとりも与えてくれるのです。

蛇足ながら、本光寺では梵鐘も変わっていて、一般的には撞木を担ぐように撞きますが、ここでは教会の鐘を鳴らすように滑車から垂れ下がった紐を下に引っ張って撞くという、珍しい撞き方をします。

住職の口癖  君は、二人要らない。


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 以前、我が家には、寺の警備犬(?)を2匹飼っていました。柴犬で,当時共に13歳でした。一般に犬の寿命は13~15歳だそうですから、もうご老体です。最近、アコ(雌)の目がパンダのように黒くなり、よく見ると目が開いていないようなので、掛かり付けの病院で診てもらったら、歳のせいで皮膚がたるみ、逆まつげになっているというのです。そのために見えにくいものだから右往左往して何にでもぶつかり、怖くて小屋から中々出たがりません。今日も女房と餌をやりに行った時、以前だったら遠くから我々の足音を聞いただけで喜んではしゃいで待ってくれたのに、今じゃ小屋のすぐ間近で呼んでも出て来ないのです。女房が小屋を覗いて、何と「ワン!」と吠えたら、やっとやんわり(ゆっくり)と出て来る始末です。私はそんな動作の鈍さが尚更可哀想に思えてきて、若い時の無邪気な仕草もすっかり消えたアコを眺めながら、<あぁ、おばばになったな>とつくづく感じました。

 でも、この犬たちも以前はきかん犬で、これまでにも不審者3人の足に噛みついたり、彼らの生活領域に侵入して来た鳩4羽と烏1羽を撃退をしたこともありました。それから、このようなこともありました。夏の或る日の深夜、あまりの異様な犬の鳴き声で私は目が覚めて、一体何事かと心配で外に出てみると、真っ暗な境内にたった1台の車がドアを開けたままで停めてあり、どうも車の中に人の気配がします。恐る恐る近寄ってライトで照らしてみると、そこには泉原君(本光寺の有望な中堅僧侶)が仰向けに片足を外へ放り出し、口を開け鼻提灯を膨らませ泥酔状態ですっかり寝入っています。

 この時も相変わらずわが警備犬たちはけな気にも鳴き続けていたのですが、多分、当の泉原君には依然とその声が聞こえていなかったようです。でも、私にはその鳴き声はやさしく、恰も「泉原さん、こんな所で寝ていると風邪ひくよ」と、泉原君の身を案じて懸命に起こしているかのように聞こえました。この時、私もついやさしく「おい、こら、起きろ!こんなとこで寝るバカいるか」と、声を掛け、やさしく頬を撫でてみましたが、一向に起きてくれませんでした。それで私は諦めて、その後寝たのですが、どうもあれからも犬たちは夜通し鳴き通していたようでした。

 そもそも、犬が我が家に来たのは下の娘が9歳の時、その娘が「犬が欲しい」と駄々をこねてせがみ、到頭飼うことになったのですが、当初、犬を飼った経験のある女房は「犬が死ぬのが辛いから」と、言って反対をしていました。あ~、そういえば、こんなワルツの唄がありましたな。♪別れは辛いことだけど 仕方がないんだお前たち…

住職の口癖  苦は色を変える。

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私たち坊主は、時々人から仏壇店や葬儀社、そして石材店などの仲介を頼まれることがあります。私が初めてそのような体験をしたのは、旭川別院に就職した26歳位の頃、別院から毎月お参りに行っていたある門徒の人から仏壇店の紹介を頼まれ、そこで私は別院の門徒の上田仏壇店を紹介したところ、後日この仏壇店の主人から「先日は有難う。これ、僅かだけど先日のお礼だから」だと言って、封筒を差し出されました。

私はこんなことは初めての体験でしたから、受け取ってよいものか一瞬ためらったものの、このことは別院の人たちには内緒にして家に持ち帰り、うきうきしながらその包みを開けてみると、当時の私の給料は10万円位でしたが、その額の半分ほどのお金が入っているではないですか。その時私は何か悪いことをしたような、また悪いことを覚えてしまったような、人に堂々と言えない後ろめたい気持になりました。

そこで、女房にそのことを打ち明けると、女房は「そんなに嫌なことなら、上田さんに『私はこのお金は要らないから、この分をそのお客さんに負けて上げて下さい』と言ったら」と言われ、私は<それは、いいことだ>と思い、早速、上田さんにその旨を話し、お金を返そうとしたら、「いや、今回のところは、これは受け取って下さい。じゃ、次回からそのようにさせてもらいましょう」と、軽くあしらわれて仕舞いました。

それ以来、旭川在住4年間でこのようなことが度々あったのですが、上田さんはずっと私との約束を守ってくれました。でも、このことが逆に上田さんには随分と私に‘借り’意識というか、負い目を与え続けてしまったような気がします。

というのは、後に私が別院を辞めて岩見沢のある寺に勤め先が替わることになり、その引越しの当日、上田さんはこれまでのお礼だと言って、人夫にと店員2人を、そして店の2tトラックまで宛がって下さったのです。更に、岩見沢に着いて荷降ろしが済んで、女房が気を利かして「これ、帰り道に弁当でも買っていって」とお金を渡そうとしても、「それは貰っちゃいけないと堅く言われているんで」と、中々受け取って呉れず、女房は無理矢理ポケットにお金を押し込んだくらいでした。私はその時、結果的にそれが良かったことなのか、悪かったのか、返って面倒な要らん気遣いをさせてしまったのではないのかと、私の我儘を強要したことが申し訳なく、何とも複雑な思いになりました。でも、これも私の若い時分のよい体験でした。 

住職の口癖  門徒に自分の都合を押し付けないこと。


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円満の会も発足して今年で6年目を迎えました。もう登録会員も500人を超え、これまでの会の活動は小松の町の人たちに可成り知れ渡っているように思います。度肝を抜いた奇抜なイベントもありましたし、また逆に誠に地味な活動でも毎年続いているものもあります。

あれは平成9年の年明け早々でしたか、日本海島根県沖でロシアのタンカー「ナホトカ号」が沈没して、多量の重油が真冬の荒れた日本海に流失して漁場や漁村に大変な被害をもたらし、大騒ぎになりましたが、あの後、私たち円満の会の人たちも、200人以上の人たちが安宅の海岸に集まり清掃奉仕をしました。流木やゴミなどを皆が手分けして拾い集めて、会員が好意で用意してくれた何台もの自家用のトラックで、処理施設まで運びました。

このことが切っ掛けとなり、ボランティア委員会では毎年一箇所ずつ小松の老人福祉施設を回り、押し掛けの清掃奉仕をすることになったのです。ところが、この活動がまたどの施設でもとても喜んで下さり、「次はいつ来てもらえるのか」と、尋ねられるくらいなのです。去年などは「グリーンポート小松」老健施設で、100人近い人たちが施設内外に分かれて作業をしたのですが、きめ細かい行き届いた仕事振りに施設職員の方が感心され、特に何人かの本職の庭師の方が庭木の剪定までされたのには、思ってもみなかった事だと大変喜ばれました。

何れにせよ、円満の会は「寺は楽しむ所」だということを様々な活動を通して皆が実感しているのです。この円満の会には、会則が無く、従って会長を置かず総務・委員長会の合議制で何事もすべて決まります。いつだったか、総務の岩倉成利さんが市役所から取り寄せたNPOの資料を私に見せてくれたことがありました。そこには「日本では、NPOの原型は寺院にある」と書かれてあり、驚きました。これまでの円満の会の活動を振り返ってみれば、「なんだ、円満の会そのものがNPOじゃないか」と、その時私は思えたくらいです。この会には既に「政治活動と宗教活動をしない」という暗黙の取り決めがありますが、これもNPOには大事な条件です。

そこで、私は今年度からNPOの設立するための準備に、円満の会の事務局を設置することにしました。NPOの活動内容には、福祉、社会教育、まちづくり、スポーツ振興、環境保全、国際協力、災害救援、子供育成など17分野の活動が認められています。さて、今年から本来の寺に立ち帰るための新たな取り組みが始まります。

住職の口癖  無い物ねだりは、せんとおこう。


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 戦後、日本はひたすら豊かさを求めて、今日では世界でも有数の経済大国と云われる程の自由で豊かな国家を作り上げました。便利で、物に溢れ、まさに人間の手で此の世に極楽を作り上げたようなものです。しかし、この豊かさを手に入れたが故にあらゆるところの分野で不条理な面が出てきて、今や政治家はそれを解決せんがために改革という言葉が口癖になっています。例えば、税制改革、社会保障、エネルギー・環境、雇用・就労、都市整備、社会福祉、教育改革等々、挙げれば切りがないくらいの改革ラッシュです。これは全く皮肉なことで、日本は今まで豊かさを得ることを唯一の目標にして、それが漸く実現できたのに、今度は豊か故に苦悩しています。

 ここで一つ例を挙げてみると、春の時期になると、よく新卒者の就職状況が厳しいと報じられています。就職難である主な原因は、景気低迷による企業からの求人数が減少していることですが、また一方では若者の就業意識の低下もその原因に挙げられ、このことが問題視されています。今は豊かな時代ですから、若者には是が非でも働かなければならないという、切羽詰った意識が薄いように思えます。何故なら、今の殆んどの若者はすでに衣食住が足りている訳ですから、差し迫った求職意欲が持てないのも致し方ないことかも知れません。

 この点を高校の就職指導の担当者に聞くと、「求人情報があっても本人の性格や適正に合わない職種で選択をためらうというのなら未だしも、それ以前の問題で、自分自身の就職のことなのに、高3になっても、まだまだ幼稚な意識しか持ち合わせていないことの方が深刻なんですよ」と言います。豊か故に、何をしたらよいのか分からず、何かに挑戦しようという意欲もなく、自分のやるべき事が見つからない。主に、このような意識の若者が学卒未就職者やフリーターになるようです。

 また、高校教師をしている私の友人が以前に「かつて数学者のラッセルが人間の不幸に‘貧困’と‘退屈’がある、と言ったが、今リストラで困っている者がいても、食べられないことはない。今の人の不幸は、やるべき事が見つからない、そしてそれに伴う‘退屈’だと思います。学校の抱えている問題児や不登校児の病巣はここにあるのではないかと思っています。そして、このことは一般人も同じではないかと思っています」と言っていましたが、確かに、「豊か故に幸せ」とはいかないようですね。
 では、この不幸を一体誰が救うのでしょうか。

住職の口癖  (呑み会幹事に)おい!新年会は、まだか。

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 昨年、1月22日の午前3時の話です。雪が昨夜から不気味に降り出したものですから、私は気になって外の様子を見てみようと窓の戸を開けると、「ヒューヒュー」という風の音と一緒に「サラサラ」と小音を立てながら粉雪が舞い込んできました。外は夜にもかかわらず雪で随分と明るくなっていて、それが大変な吹雪です。この時、私は「こりゃ、除雪をせなあかんな」と思いながら、起きた序に時間までこの‘だらメル’を書くことにしました。

除雪作業は朝5時頃から始めるのですが、広い境内と寺の門前周辺の歩道を自家用の中型除雪機で2時間程かけて除雪をします。まず、出勤して来る者たちが車で寺の中に入れるよう通路から開け始めます。なるべく要領よく、予め決めた数箇所の投雪場所に雪を集めて、積み上げていきます。この除雪機は総重量が750㎏もあって、投雪距離は20m以上も雪を飛ばしますから性能も良いのですが、ただ機械の操作が傍目で見ているよりは難しくて、而も危険なのです。安全装置は付いているのですが、今までにも私は咄嗟の判断が間違い、後になってから「危ないところだった」と、胸をなでおろしたこともありました。
ゆきかき
運転操作には何本ものレバーを使いこなさなければならないので、一瞬の勘違いなどの操作ミスで事故を招きかねません。現にこの時期除雪機を使って、よく機械に挟まれる圧死事故があるくらいです。ですから、私はそれが怖くてこの機械を人に触らせないようにしています。

この雪も詩や歌や絵の題材に使われている内は情緒や風情があってよいのですが、雪国の人たちの日常生活には大変支障を来たす物であり、誠に邪魔な物です。そして、何れ消えてしまうこの雪のために、止むを得ないことだと諦めつつ、毎年今の時節に無駄とも云える労力と経費を使わされています。

ところが、子供は違うのです。境内に高く積み上げられた雪の山は、小学生位の子供たちがスキーをしたり、かまくらを作ったりして遊ぶ格好の遊び場になるのです。特に本堂の軒下は屋根から落ちる雪と、境内から寄せ集められた雪とで可成りの量になります。そこで楽しそうに遊んでいる子供たちを眺めていると、私は「まぁ、いいか」と、愚痴を言いたい自分の心も自然と治まり、微笑んでいます。あっ、もう5時だ。さぁ、始めよう。

住職の口癖  坊主は畳の上の乞食。


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 今から三年ほど前、母の葬式を終えた後、お骨を墓表に「累代塚」と彫られてある我が家の墓に納骨しました。この墓には重い石板の蓋を二人掛りで持ち開けて、骨壷から手でお骨をすべて取り出し、墓の中に散骨するのです。私はこの時、これで母も漸く亡き一族の許に帰すことができた、と何しか安堵感を覚えておりました。誰もが死ねば、お骨しか残らない訳ですが、人によっては一時の遣る瀬無い思いが、殊更にこのお骨に執着を持つ人がいるようです。

もう15年前ものことですが、17歳の少年がバイクで事故に遭い、亡くなりました。そのお通夜が終わった後、数人の同級生が私を呼び止めて「ちょっと、聞きたいんですけど。あす皆で一緒に火葬場に行こうと思っているんですが、僕らもお骨をもらってはいけませんか」と、神妙な態度で聞くのです。

そこで、私は「君ら、仲良しだったんだね」「はい」「お骨をもらってどうするの」「ペンダントに入れて、いつも身に付けておきたいんです」「成程。でも、君たちの気持はよくわかるけど、お骨はアクセサリーではないよ。やっぱり全部お墓の土に帰してあげようよ。そうすれば、君たちはいつでもお墓でお参りができるじゃないか」と、その時そう応えておきました。

また、私の学生時代に聞いた話に、外国のある学者が世界中に分散している釈迦の遺骨(仏舎利)をすべて集めたとして、その重さを計算したのです。その結果何と1t以上にもなったそうです。これも遺骨の一かけらでも欲しい、という故人に対するこの追慕の情は先の少年たちの思いと同様なものがあるように思います。

ところで、戦前まではそれぞれの町々には三昧場(さいまいば)という火葬場があって、家から出棺すると無理矢理二つ折りにされた遺体の入った棺桶を担いで三昧場まで運び、そこで一俵の炭で一晩かけて荼毘に付されたといいます。これでは当然不完全な状態で焼け残ったお骨も多かったことでしょうから、臭くて家に持ち帰れず、止むを得ずその大半は三昧場でそのまま埋葬したものと思われます。実はそれでよかったのです。

ところが、今日では火葬されたお骨は誠にきれいに残るので、家に持ち還ることができるようになりました。しかし、このことが死ねば人の身は大地の懐に帰るという自然の道理に逆らい、お骨に余計な執着心までも持たせてしまったようです。

住職の口癖  忙しい人ほど、時間を上手くつくるもの。


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  本光寺の大晦日の除夜の鐘撞きには、生憎の雨降りにもかかわらず、多くの老若男女が訪れて大変な賑わいでした。特に、毎年恒例になった蕎麦振舞いには、無料ということもあってか、用意をした300杯分の蕎麦が一時間も経たない内に品切れになるほどの人気で大盛況でした。
除夜会 年越しそば
  この日、集まった20人ばかりのスタッフの人たちは、午後の準備から深夜になる後片付けに至るまで、何の事前打合せもせず、誰が指図をする訳でもなく、各々が勝手に考えて、身を動かしています。
キャンドル
 先ず、テントの設営から始まり、暗い境内の参道の両隅を50個余りの無色の一升瓶を半分切断したものをキャンドルのようにきれいに並べ置いて、参道をローソクの光で飾る者、鐘楼を効果的にとライトアップする者、テーブルを作るために沢山のビールケースやコンパネを持って来る者、そのテーブル掛けにと自前の白い布を裁断して持って来る者、テーブルの飾りにと花差し用にわざわざ山から青竹を切って来る者、そして、蕎麦振舞いが始まると、テントの中では蕎麦を湯に通す者とお椀に出し汁をお玉で入れる者、使った箸や棄て汁を入れる場所を教える者、外では大声で客の呼び込みをする者、参道に並べたローソクの火が雨で消える度に火を付けて歩く者等々、まぁ、何とマメな人たちばかりなのでしょうか。
スギさん  さて、ここで、これらの人たちの中でも、特に触れておきたい重要人物がいます。12 月の始め頃に、この人物から私の携帯にメールが届きまして、「今年も年越し蕎麦をやらせて頂けないでしょうか。準備の都合もありますので。どうか、ご許可をお願いします」と。これじゃ私の言う台詞じゃないですか。この人物、通称スギさんと云って、毎年、大晦日には晩の9時頃から寺の台所で、多量の出し汁を作り、葱を切るなどの準備をしてくれているのです。ところが、このスギさん、本業は寿司屋の板前の筈なのですが、実に器用な人で、蕎麦の他にも、今までに竹製でコの字形をした流しソーメン台を考案し、自ら竹薮から竹 を切り出し、施工したり、また、縁日用の 屋台も作ったりしました。

 面倒なことを厭わず、一文にもならぬことばかりに精を出して、いつも「ワシは、本光寺で楽しましてもらっています」と、さり気なくこう言うこのスギさん、さて、皆さんはこの人物をどうような評価をされるでしょうか。


住職の口癖  工事の音って、いいもんだな。

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