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不可侵の書斎

妄言多謝

 知的障害者施設の入居者を狙った相模原事件の被疑者が語る動機について、メディアが理論的にまともな反論ができていない状況が気になっている。もちろん、被疑者が語ったとされる動機や「なぜ人を殺してはいけないのですか」式の共同体構築意思を欠いた問いに対してダンマリを決め込むというのは一つの見識ではある。しかし気がかりなのは、もし本気で反論する気になってもそのための言葉を持たないのではないかということである。今回はメディアの沈黙の理由を考えてみたい。

「相模原事件とパラリンピックの共通点」をより正確に言えば、相模原事件の被疑者の動機と、パラリンピックを取り上げるメディアの隠された心性には共通点があるということである。結論から言うと、積極的か消極的かという違いこそあれ、どちらも優生思想に基づいていると思われるのである。

相模原事件の方は本人が語っているとされることだからそれはそれとして、問題なのはメディアがパラリンピックで活躍する障害者の姿を感動的に描くときの潜在意識が優生思想と極めて親和性が高いということだ。この潜在意識を明示的に表現すれば次のようになる。「健常者のオリンピックを取り上げた以上、障害者のパラリンピックも同じような扱いか、同等とは言わないまでもそれに準ずる扱いで取り上げる必要がある。しかし記事や映像として伝えることには積極的な意味もある。それは、障害者であっても活躍できている現状を紹介することで、健常者・障害者をともに感動させることができるということだ」。さらにこの言外には、活躍して世間の役に立つ障害者には価値があり、そうでない障害者には価値がない、という言明が潜んでいる(スポーツや障害者に限ったことではないが)。

(一見突飛に思えるが、この種の考えは我々の中にあまりにも内面化しているために問題として意識されないだけである。例えば、我々は幼少期から「将来世のため人のために役立つ人間になりなさい」と教育され、他人を評価するときにも「世間への貢献度」を重要な指標とすることに何のためらいも感じない。ところが、このことは「他人の役に立たない人間は無価値である」という立場にほぼ等しく、被疑者の語る優生思想とほとんど変わるところがない。(言うまでもないが、ここで「ほぼ」等しくと書いたのは、論理学的には一般にある命題が真でもその命題の裏は必ずしも真ではないからである))。

ところで、障害者(これも健常者にも言えることだが)にとっての最大の苦悩をもたらすのは、「自分の存在が世間の役に立つことができない」という意識である。健常者にとってのオリンピック選手がそうであるように、障害者にとってのパラリンピック選手は目標とするにはあまりにも現実離れしている。オリパラで活躍する選手たちを見て「自分たちもあの舞台に立って活躍して日本中に勇気と感動を与えたい」というようなことを考えるのは、子供かよほどおめでたい人間だけである。ときには、選手たちが日々積み重ねたに違いない努力に敬意を表したり、自分ももう少し頑張ってみようと思ったり、人間にここまでのパフォーマンスが可能なのかと感嘆したりすることもあるにしても、ある程度客観的に自分の立ち位置を判断できる人間はむしろ「なぜ自分はあの選手たちのように恵まれた肉体と精神を持ち、恵まれた環境に生まれ育たなかったのか」「自分に与えられた障害にはどのような意味があるのか」「取り柄のない人間が生きることの意味はどこにあるのだろう」などなど、際限のない問いに苛まれることだろう。つまり、人のために活躍できないという現状こそが苦悩をもたらしているのに、誰かのために活躍している人の姿をこれでもかと見せつけられれば、自分の存在が否定されているように感じ、失意の底に沈んでしまうこともあるのではないだろうか、ということが言いたいのである。といって、別にどうこうしてほしいと言っているわけではない。善意の報道によって勇気づけられるとは限らないと考えられるほんのちょっとの想像力があってほしいと願うだけである。

ということで随分と脇道にそれてしまったが、相模原事件はパラリンピック報道に典型的なメディアの潜在意識の問題点を突いた格好になっていると言えるわけで、被疑者の動機に正面から反論できないのは、メディアというかメディアを含めた日本社会が優生思想を深く内包しているからであろう。

 

オリパラについて触れたついでにもう一言。オリパラにつきものなのがナショナリズムの問題である。五輪とナショナリズムの運命的な不可分性については1936年のベルリンオリンピックや近年の北朝鮮のオリンピック熱を例に出すまでもない。(ちなみに、1940年には、われらが大日本帝国が皇紀2600年を記念して誘致した結果、東京でのオリンピック開催が決まっていたが、日中戦争の激化と資金不足により開催権を返上している。)

オリパラほど優生思想とナショナリズムのむき出しの形はないと思うのだが、今年の夏の様子を見るとメディアが自らの報道の立脚点についてどれほど自覚的であるのかを疑わずにはいられない。4年後の東京オリパラではさらに「オリパラ感動ポルノ」が大手を振って日本中を「一億総感動の渦」に包み込んでいることだろう。それに同期できない人間は非国民扱いをされるのだろう。今から気が滅入りそうである。


(便宜的に健常者と障害者を区別しました)