『モモ』の本を読んでいて、
ずしんときた一説。
『遊びをきめるのは監督のおとなで、
しかもその遊びときたら
なにか役に立つことをおぼえさせるためのものばかりです。こうして、こどもたちは、
ほかのあることを忘れていきました。
それは、楽しいと思うこと
夢中になること、夢を見ること。』
『しだいしだいに子供達は、
小さな時間貯蓄家といった顔つきになってきました。やれと命じられたことを、
いやいやながら、面白くもなさそうに、
ふくれっつらでやります。そして自分たちの好きなようにしていいと言われると、こんどは何をしたらいいか。ぜんぜんわからないのです。』
まだまだ
保育園は小学校にむけての指導したり、
小学校から高校までは
一斉教育だったり、一斉指導だったり、
集団教育なように感じます。
でも社会に出ると、
自主性をめっちゃ求められるのに、
自主性や自立性は
どんな時に
育まれるのかぁ?
と、保育士時代に支援をしながら、
ふしぎに思うことも
多々ありました。
モモみたいな寄り添い方、
話の聞き方をする人になりたいし、
自分自身のことも大切にしていきたい。
『憂う』の『憂』と言う感じは、
大切なひとを亡くして悲しんでいる人の姿が
成り立ちとされているとのことです。
俯き、悲しんでいる。
けれど、俯いているままでも
ないかもしれません。
憂うということは、
こうしたいという思いがあるだから
悲しいのではないかと感じます。
では、俯きながら、
憂いながら、
どうしていきたいのかを
それぞれが思い、考え、
小さなことから行動する。
わたしも
できることから始めてみようと
思っています。
まずは、そうだな。
心が豊かであるように、
心を整えるために、
自分のいる空間を
日々綺麗にして
少しでも整えてみるとか。
どうせ無理とかではなく
どうしたらできるだろう?
っておもう癖をつけるとか。
お金の使い方。
お金をつかうとき、
お金は自分の時間を対価に得たものだから、
そのモノはその自分の時間をかけても欲しいものなのかを考えるとか。
無関心でいられても
無関係ではいられないことを
肝に銘じて
選挙に行くとか。
なにより、
自分自身と、
自分の近くにいてくれる
大切なひとを
大切にして、
一緒にいられる時を大切にして
思い合うとか。
希望になること
小さいことでも、
大きいことでも、
大きさは関係なく
毎日を積み重ねていきたいと
感じる今日この頃です。
もう、この姿が
平和すぎて。
ほっこり。と言う言葉を
日々、体感しています。