電車のドアが開いた瞬間に潮の匂いが鼻をつき、海がすぐそこに迫っていることを思わせる。
潮の匂いを運ぶ風に引き寄せられるように、改札口を抜けると海へ続く道を選んでいた。
何度も何度も通った道。
「狭くてもいい、海の見える部屋に住みたいんだ」
それが彼の口癖だった。少しでも安くと思うと快適さと遠くなり、気に入った部屋は家賃が高過ぎる。
二人で海辺の町を端から端までずいぶん捜し回ったものだ。
結局一間しかないが、海がたっぷり見える小さなアパートに棲みついた。
失業中で一日中部屋に居て海を眺めていた彼を、大家さんは画家か詩人だと思ったと後で言っていた。
失業するまで勤めていたのは商社なのに、ゲイジュツカに見えたなんて、とこれは単なる友達になった今も、
私たちのあいだの数少ない笑い話の一つになっている。
私はといえば、毎朝大急ぎで支度をして駅まで走り、電車で一時間の広告会社に勤めていた。
海をゆっくり眺める暇なんて、なかった。
二人の生活を支えるために仕事を止めるわけにいかないのに、彼の望みどおりに海の見える部屋に住むなんて始めから無理だったのだ。
でもあの頃は、彼の言うことなら百パーセントきいていた。
仕事を止めてから徐々に気力が失われていくのが目に見えていたからなおのこと。
一向に仕事が見つからない彼と、毎日時間に追われている私。
二人でいる休日も、会話よりも波の音を聞いている時間のほうが多くなっていた。それぞれに別のことを考えて。
波の音がこんなに穏やかで、海からの風がこれほど優しいなんて、あの頃は思えなかった。
波の音は眠りを妨げたし、潮風は髪を傷めた。
そんな海を一日中眺めて暮らしている彼を、いつまでも支えているほど私は強くもなかった。
しかし今、たった一人で砂浜に佇んで、遙か前方の点のように見える船を見ていると限りない世界が開けているように感じられる。すると寄せては返す波の音がこの上なく心地よく感じられ、彼がその心地よさから逃れたがらなかったのも無理はないと思えてくる。
もう一度この街で暮らせるなら、今度は私が一日中海を見ている番よ、そう言ったら彼はどんな顔をするだろう。
そんな想像に涙ぐみそうになりながら、海を後にして歩き始めると、潮を含んだ風に全身をすっぽりと包まれていた。
1996年作