静寂のとき -2ページ目

日々意識のほとんどを奪っている問題だらけの人生に対する恐れと欲望のすべてが過ぎ去ったとき、
いったい何が残るでしょうか?

一本の線です。
墓石に刻まれる誕生日と没日のあいだの1インチか、2インチほどの長さの一本の線です。
エゴの「わたしに」とっては、これは気の滅入る考えです。
あなたにとっては、胸のすくような、解放感のある考えです。

 

エックハルト・トール

旅に出て、もしも自分より優れた者か、または自分に等しい者に出会わなかったら、
むしろきっぱりと独りで行け。
愚かな者を道連れにしてはならぬ。

心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。




いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。




明日のことを思い煩うなかれ。明日のことは明日思い煩え。一日の労苦は一日にて足れり。




自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない。




惜しんでわずかに種を蒔く者は、わずかに刈り取ることしかできない。惜しまず豊かに種を蒔く者は、豊かに刈り取ることができる。





信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。




「眼には眼を、歯には歯を」といえることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗うな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。




暗いと不平を言うよりも進んで明かりを点けよ。




狭い門から入れ。滅びに通じる門は広く、その道はなだらかでこれに入るものは多い。
何処で、誰から産まれたのかを問うのではなく、あなたが何をし、これからどうしようとしているのかを、問いなさい。(釈迦牟尼)

「自分はひとりなのか、それともふたりなのだろうか?」

こんな自分と生きていくのが嫌だとすると、『自分』と『自分が一緒に生きていきたくないもうひとりの自分』という、ふたりの自分が存在することになります。そこでわたしは自分に言い聞かせました。

 

「きっと、このうちのひとりが、『ほんとうの自分』なのだ」
この時、わたしは、頭の中でつぶやいていたひとり言が、ピタリとやんでしまうという奇妙な感覚に、ハッとしました。

わたしの意識はしっかりしていましたが、わたしの思考は「無」の状態でした。

 

次の瞬間、 わたしは、まるで竜巻のような、すさまじいエネルギーのうずに引きよせられていきました。
それは、最初はゆっくりで、次第に速度を増していきました。わたしはわけがわからず、恐怖でガタガタと震えはじめました。

 

その時「抵抗してはなりません」というささやきが胸に飛びこんできたのです。
すると、 なぜか、恐れは消え去りました。

わたしが観念して、エネルギーのうず、「空(くう)」に身をゆだねると、わたしはみるみるうちに、その中に吸いこまれていきました。
そのあと、 なにが起こったのかは、まるっきり記憶にないのです。

 

翌朝、小鳥のさえずりに、目を覚ましました。
まるで生まれてはじめて聞くかのような、 美しいさえずりでした。目は閉じたままでしたが、脳裏のスクリーンに、さんぜんと輝くダイアモンドのようなイメージが見えました。

 

「なるほど! ダイアモンドに声があるとするなら、きっとこんな声に違いない!」

わたしが目を開けると、力強い朝日が、カーテンを貫いて、わたしの部屋に降り注いでいました。
この時のわたしは、そのまばゆい光が「人間の英知をはるかに超えた、無限ななにか」であるということを、あたりまえのように知っていました。

 

「そうか、この暖かい光は、愛そのものなんだ!」

私が消えた時
私が現れた

どれを選んでも究極同じなので
歩きたかった道をただ歩いていた


誰の許可もいらなかった
歩きたいから歩いた
止まりたいから止まった

あるようで無かった
無いようであった

外はうるさいのに
静寂だった

あなたとは誰か?

そして運命や自由意志を持っていると考えるその人とは誰なのかを見いださねばならない。


あなたとは誰か?

そして何故あなたはこの限定された身体を得たのであろうか
乗り物の動きをあなた自身の動きと誤って同一視したように、あなたの行為もあなた自身のものではなく、神の行為なのである。

膨大な仕事を成し遂げたとしても、実際には彼は何もしていない。
それ故、彼の活動が心の平和と無為の道を妨げることはない。

何故なら全ての活動は彼の存在の中でのみ起こり、彼自身は何もしないという
真理を知っているからだ。

それゆえ、彼は起こっている全ての活動の沈黙の目撃者としてとどまるのである。


ラマナ・マハリシ