今日は外は雨です

雨のしとしという音が好きなので、訓読をしながら、なんだか心地がよかったです

今日与えられたところは、





・歴史の重荷を自分のものとして担い、下向する歴史の方向を逆手せしめる原動力となるのは自分たちだと考え、それたけではなく実際に自分の肩にその重みを「重い」と感じている者でない限り、参加しているつもりでも、見物人にすぎません。
・いわば勝利の基盤の上に既にガソリンも入れられて走っている、経験ある運転手(先生)の車に、たまたま拾い上げられたヒッチハイカーのようなあなた方です。
・第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由
(一)創造原理の絶対性と完全無欠性のために
(二)神のみ創造主であらせられるために
(三)人間を万物の主管位に立たせるために





堕落論の六節について。
今日はいろいろ考えました。
神様はなぜ、堕落していこうとする愛する子女に直接手を出して堕落を阻止しなかったのか。
その理由が(一)~(三)。
それからすると、仮にその時神様が直接干渉してしまっていたならこの世界では、
・創造原理は絶対的ではなくなる
不完全なものとなる
・神とサタンまでもが創造主となる
・人間は万物を主管できない
でも堕落せずにすんだので、人間は神の血統のまま、そして堕落性はないはず。
……いまいちどんな世界になっていたのか想像できない

でもとにかく、神様はこの様な世界が築かれることを望まなかった。
それよりも、愛する子女が堕落し、神の血統も失い、罪悪に満ちたこの悲惨な世界になったとしても、干渉しないことを選ばれた(選ばざるを得なかった)。
なぜか?
それはたとえ堕落世界が築かれてしまったとしても、
創造原理の絶対性、神のみが創造主であること を失わなければ、創造理想を完成する道が開かれる(復帰摂理は再創造摂理)
一方、堕落しなかったとしても、創造原理の絶対性を失い、サタンまでもが創造主になっていたならば、創造理想を完成する道は閉ざされる。(のではないかなぁ。)
そう考えると、何を失ったとしても、これからどんな悲惨な路程が待っているとしても、創造理想の完成だけには何物も変えられない

という神様の強い決意を感じました。
神様はどれだけ創造理想世界を待ち焦がれているのだろうか。我が子である人間と喜び生きたいのだろうか。
そして、神様がそこまでして成したい世界はどんなに素晴らしいのだろうか。
私はその世界をどれだけ慕い歩んでいるだろうか。
…と、寝ぼけた頭と、低い原理理解力で思いめぐらせた朝でした


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