相田みつをさんの
「トマトとメロン」という詩がある。
<トマトとメロン> 相田みつを
トマトにねえいくら肥料やったってさ~
メロンにはならねんだなあ
トマトとねメロンをねいくら比べたって
しょうがねんだなあ
トマトよりメロンのほうが高級だ なんて思っているのは
人間だけだねそれもね欲のふかい人間だけだな
トマトもね メロンもね当事者同士は
比べも競走もしてねんだな トマトはトマトのいのちを
精一杯に生きているだけ メロンはメロンのいのちを
いのちいっぱいに 生きているだけ
トマトとメロンをね 二つ並べて比べたり
競走させたりしているのはそろばん片手の
人間だけ 当事者にしてみればいいめいわくのこと
『メロンになれメロンになれ!!
金のいっぱいできるメロンになれ!!』
と尻ひっぱたかれてノイローゼになったり
やけのやんぱちで暴れたりしているトマトが
いっぱいいるんじゃ ないかなあ
トマトもメロンも一流のトマトやメロンになろうと努力しているかが大切です。
何もしなくて楽なトマトでいい、今のままでトマトがいいと現状に妥協しているようではトマトとしてトマトの名前を落とします。
メロンもメロンで日々努力しているのです。
何もしていないメロンはメロンとして評価されません。
手間をかけて育てるからメロンは日本では価格が高いのです。
世の中にはさまざまな野菜や果物が必要です。
生き物には多様性が必要なのです。
多様性のない生物は自然界では生き残れません。
自然界の変化についていけないのです。
人間社会も多様性を認め、違いを認めることが大切です。
そして個の存在を認めることが大切なのです。
人は一人一人顔も違えば性格も違います。
価値観も違うのです。人間はみんな違うのです。
人間関係は違いを認めることから始まります。
集団の中の個は一人一人違うのです。
「トマトはメロンではないのです」トマトはトマトとして認められ、メロンはメロンで認められることが大切なのです
。
学年末考査が終わりました。
トマトとしてまたはメロンとして頑張ったでしょうか。