引用したのはこのサイト
http://www.asahi-net.or.jp/~bv7h-hsm/koji/
むかしむかし・・・
衛国の君主(衛君)に愛されている『弥子瑕(びしか)』という人物がいた。
衛国の法律ではひそかに君主の車に乗ったものは“あしきり(足の腱を切る)の刑”に処せられることになっていた。
あるとき、『弥子瑕』の母が病み何者かが夜こっそりとしのんできて『弥子瑕』にこのことを伝えた。そこで、『弥子瑕』は、衛君の許しを得たと偽って、主君の車に乗って母の元に駆けつけた。
すると衛君はこれを聞いて
「なんと親孝行なことだ。母のために“あしきりの刑”を忘れてしまうとは!」
と『弥子瑕』の徳をたたえたのである。
また別の日。
『弥子瑕』は衛君と果樹園に遊んだが、桃を食べてみたところとても美味しかったので、『弥子瑕』は自分が食べた残り半分を主君に食べさせた。
すると衛君は
「なんと『弥子瑕』は私を愛していることか!うまいことも忘れて私に食わせてくれるとは!」
やがて『弥子瑕』はその容姿が衰えるに従って衛君の寵愛が薄れ、ついに彼は衛君からお咎めを受けることになった。
衛君が言うには
「こやつはそもそも、以前わしの車に偽って乗りおったし、私に食いかけの桃を食べさせおった不届き者である!」
・・・
これは『韓非』(株を守る・参)の話で、彼はこの寓話を引用しながらこう述べる。
「弥子瑕の行いははじめからまったくかわっていない。しかるにはじめに徳のあること、とされたことで、あとで咎めをうけることになったのは、衛君の愛が憎しみに変わったからである。従って、主君に愛されていれば、才覚が的を射て親しみを増し、主君に憎まれればせっかくの才覚も的をはずれ、咎めをうけたり疎ましさを増したりするものである。
だから、諌言や談論をしようとするものは、自分が主君に愛されているか憎まれているかをよく見極めてから説くようにせねばならないのである。
あの竜という動物は、飼いならせばまたがって乗る事もできる。しかし竜の喉の下には、径一尺ほどの逆鱗(さかさに生えたうろこ)があって、もし人間がそこに触れたならば必ず殺される。
同じように人君にも逆鱗というべきものがある。人君に意見を述べる者は、注意して人君の逆鱗に触れぬようにすれば、まず成功に近いと言えるのである」
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弥子の色衰えて愛弛むに及びて、罪を君に得たり。君曰く、
「是れ固嘗て矯りて吾が車に駕せり。また嘗て我に啗らわしむるに余桃を以ってせり」と
故に弥子の行いは未だ初に変わらざるなり。而るに前の賢とせらるる所以を以ってして、後に罪を獲たるは、愛憎の変なり。故に主に愛有るときは、即ち智当たりて親を加え、主に憎有るときは、即ち智当たらず、罪せられて疎を加う。故に諌説談論の士は愛憎の主を察して、而る後に説かざる可からず。
夫の竜の虫たるや、柔なるときは狎れて騎るべきなり。然れども其の喉下に逆鱗の径尺なるもの有り。若し人之に嬰るる者有らば、則ち必ず人を殺す。
人主も逆鱗有り。説者能く人主の逆鱗に嬰るること無くんば、則ち幾し。
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・余桃の罪
愛されていたことが咎めを受ける原因になる、君寵は頼みがたい、というたとえ。
・愛憎の主
同じ言動でも相手が自分をどう思っているかで返ってくる態度は全く違う。ゆえに、主人の自分に対する愛憎を見分けなければならないという戒め。
・逆鱗(に触れる)
主人や上役とか、目上の人の怒りを買うこと。
ちなみに弥子瑕は男性ですよん(^^ゞ
ということで、この話から、男性同士の愛(日本でよく言うところの『衆道』)のことを「分桃」とか「余桃之好」などといったりもする。
芥川龍之介の『芭蕉雑記』十・衆道に
「芭蕉もシエクスピイアやミケル・アンジエロのやうに衆道を好んだと云はれてゐる。この談は必しも架空ではない。元禄は井原西鶴の大鑑を生んだ時代である。芭蕉も亦或は時代と共に 分桃の契 を愛したかも知れない。現に又「我も昔は衆道好きのひが耳にや」とは若い芭蕉の筆を執つた「貝おほひ」の中の言葉である。その他芭蕉の作品の中には「前髪もまだ若草の匂かな」以下、美少年を歌ったものもない訳ではない。(以下略)」
とある。