「Pro」は「前」、「fess」は「述べる」。

 

プロとは、人前で「私は何々だ」と公言する人です。

 

「私は作家だ」

「私は社長だ」

「私は警察だ」

「私は料理人だ」

「私は政治家だ」

「私は弁護士だ」

「私は建築家だ」

「私はサラリーマンだ」

 

公言することによって、自己を「プロ」として自覚できるようになります。

 

公言することによって、最高のサービスを提供できるように奮闘するのです。

 

プロは、プロだから公言するのではなく、

公言するからこそ、プロになれたのです。

 

プロには、人を感動させる力があります。

 

人を動かす、そんな力があれば、どんな世界でも生きていけます。

 

「私は何々だ」と公言することは、

自己を自覚させる手段として有効です。

 

なんでもいい、

プロであれ、プロになれ。

 

残された時間は短い。

 

覚悟せよ。

 

 

 

Dec 27th 2012, 14:52

結局、どちらを意識するかですね。

自分の好きなことだけを書くべきか、それとも読者のために書くべきか。

 

 

ブログなんだから、自分の好きなように書けばいいよって言う人がいたり、

やっぱりブログを読んでもらうためには、読者の「知りたいこと」をリサーチして書くべきだ、と言う人もいます。

 

さて、、、。

 

正解はどちらなのでしょうね。

こればかりは答えが出ないように思います。

 

 

売れっ子ブロガーを目指したいなら、

読者を意識しなければならないし、

 

読んでもらうためじゃなく、

自分を律するために書いているんだとしたら、

それはそれでいいと思います。

 

これから、どうするかですが、、。

 

問われる以前に、僕の結論は決まっています。

「できるまでやる」です。このブログを読んでいただく方のために、

価値ある文章を提供、人を動かす文章、人を感動させられる文章を書いていきたいと思っています。

 

だから、僕はこのブログを続けます。

 

 

「価値」を提供できるように、模索します。

 

 

まぁ、

続けてけていくうちに見えてくるものがあると思うので、

続けます。

 

 

 

百メートル先を見ることはできても、

百メートル先まで歩いてみなければわからないことがありますから。

 

 

 

2012年12月14日3:16

言葉もスポーツと同じようなものではないのかなと考えています。

 

あらゆるスポーツが徐々にではありますが、トレーニング方法や外部環境要因の改善で、世界記録を更新しています。

 

100m走という競技も、それまで人類が10秒を切ることなんて、達成困難と考えられていた時代がありました。

 

そこにあるとき、ジム・ハインズというアメリカの短距離走選手が、9秒9(手動計時)を記録したのです。

 

そのとき、世界最速を目指していた人類は、こう思ったに違いありません。

 

「なんだ、人は10秒は切ることできるのか」

 

それからというもの記録を破る選手たちが増加していき、「10秒という壁」は、以前ほど特別なものではなくなりました。

 

言葉もスポーツと同じようなものではないのかなと考えています。

 

先人たちが、積み上げてきた言葉(思考)に、

これからも、言葉(思考)を積み上げていくのではないかなと。

 

まぁ、これは僕の考えのひとつにすぎませんが、

こんな発想もあるよってことで書いてみました。

 

 

今日:名言

 

私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです。

 

ロバート・フック宛書簡 1675年2月5日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では1676年2月15日)アイザック・ニュートン

 

If I have been able to see further, it was only because I stood on the shoulders of giants.

 

今日:教訓

 

思いついたら、即メモ。

 

これくらい覚えられるからと思っていても、忘れてしまう。

 

何かをしていて、書くことができない。

あとで書こうと思っていても忘れてしまって、

「ああ、あれを中断して、メモっとけばよかったな」

 

なんてことが、よくあります。

 

今後は必ず、メモを最優先に取るようにしたい。

そのメモから、良いチャンスが生まれる場合もありますから。

 

言葉:思いつく

 

「 人生とは、おっさん(おばさん)になってから何を成すかである 」

 

今日*行ったおすすめの食事処

 

http://kenko-kaigi.jp/

 

 

 

Dec 19th 2012, 12:36

 

表題通り。1日10記事更新よりも400文字を10本とか、少ないことから、最初は更新してたほうがいい。

 

そうでないと、必ず後悔することになるから。「ああ、また今日も10記事更新できなかったあ」と。

 

1日10記事書けるのであれば、それはスゴいこと。

 

だけど、それにとらわれて、継続性が失われては、元も子もない。

 

それと、数値化できるものは、数値化すること。

 

たとえば、1日10記事でも、それはそれで数値化できる。

400文字でも10本書けば、4000文字になる。

 

今日は何文字書いたと、毎日記録として残すこと。

 

そうすれば、それは、自分の力となる。

 

習慣の力を、バカにしないほうがいい。

 

 

2017年4月21日 21:26

言語化作業は、時間があっという間に過ぎてしまう。

 

もっと、速く、速く、書かなかれば。速く書く方法は、気づいている。知っている。

 

あとはそれを実践するか、しないか。

 

しないならしないで、現状維持のまま。何も変わらない。何か少しでもいいから、変わろうとすれば、世界は変わる。

 

 

決めたことはやる。やらないという選択はない。そういう覚悟があるかないかだけ。

 

成功する人の違いは。成功する人は、続けることができる人のこと。

 

「継続は力なり」というように、続ければ続けるほど、パワーが与えられる。続けた人だけが知る、そして、得られるパワー。なぜ、得られるのか。それは、続けるということが何よりも難しいからだ。

 

昨日やったことを、今日もやる。そしてまた明日もやる。明後日もやる。このスゴさに気づけるか。

 

人は、さっき考えていたことも忘れてしまう。

 

何を考えていたのかも忘れてしまう。忘れたことさえ、忘れてしまう。忘れたの上塗り。日常というものは、そういうものだろう。覚えたと思っても、次の日、その次の日には忘れる生きもの。

 

忘れないように、忘れないように、毎日やってのける力を持とう。やってのける力。やりきる力。

 

 

 

 

 

 

2017年6月13日 22:34

 

たとえ、昨日書いたことでも、今日書いてもいい。なぜ昨日書いたから、今日はダメだって誰が決めた?

 

ほんとうに伝えたいことは、時間に関係なく、書き続けないといけない。そうしないと、たぶん、伝わらない。

 

 誰も「いま以外」のことには興味がない。過去に、書いたりしたことでも、誰もそのときのことを思い出したりはしない。誰もが、過ぎ去ったものには、無関心なのだから。

 

 だから、昨日書いたことでも今日も書く。

 

同じこと、毎日書く。 レーモン・クノーの『文体練習』のごとく、あるシチュエーションを異なる言い回しで、数限りなくに表現してみればいい。

 

そうこうしているうちに、ある表現のときに、気づきが起きるかもしれないし、起きないかもしれない。まぁ、起きないことのほうが多いのだから、起きなかったとしても気にしないほうがいい。

 

もし、誰かを起こせたとしたのなら、それこそ、素晴らしいことなのではないかな。

 

だから、たとえ前に書いたことだとしても、今日もそれを伝えたかったら、書きたかったら、書けばいい。

 

 誰もそれを止めることはできないのだから。

 

 

 

2017/05/01

さて、今日も書くことも決めず、ただ書く。

 

言語化は大事。今日あったこと、考えたこと、何でもいい。

 

それを言語化していく。言葉にできないとあきらめてはいけない。

 

言葉ではなかったことを言葉にする勇気を持とう。

それが言語化というものではないのかな。

 

行動というのは、言葉の邪魔になるものだ。また、言葉というものは、行動の邪魔になるものだ。

 

どちらも、どちらの邪魔になるけれど、どちらも同じくらい重要かつ、行っていかないといけないものだと思う。

 

一日、行動をできるだけやる。そして、それを言語化、行動ではなかったことも言語化。

 

空気のような出来事でも、言語化をする。

 

言語化がなぜ大事なのかというと、自分が何を考え、思っていたのかということを、少しでも理解するため。理解を促すため。人は、日常にというものに、流されすぎている。

 

一旦立ち止まって、自分は何をしているのか。何をしていたのか。「いま」というものに、一日のなかで、少しでもいいから、気づくことが必要だ。

 

それがなければ、自分を見失う。自分というものがあるのかどうかはどうでもいい。

 

自分というものがなければ、それはそれでいいし、自分というものがあればあるで、それを一日のなかで、認識を確かなものにしよう。

 

 

2017年6月13日 22:02

 

 人って、一日にどれくらい考えているのか? 

 

 調べてみると、3万から10万回ぐらい考えているらしい。毎分、毎秒、常に考えているようだ。考えていないときがないというくらいに。

 

 もし、考えていることに答えがない、答えが出ないようなものだったら、それを考え続けてしまうのだろうか。

 

 いや、それは考えているというより、むしろ悩んでいると言ったほうがいいのかもしれない。

 

 悩みは、人生を疲労させる。なぜなら、答えが出ないのだから。答えのでないものを、考え続けることの苦痛は計り知れない。(だから「人生は苦しみだ」という言葉を、釈迦は残したのだろうね)

 

 正しい問いを持つことだけが、日々の生活を充実させることが出来うる。

 

 答えのでない問いとは、ただの悩みだ。

 

 悩みの底に沈んでしまうくらいなら、いっそのこと「脳と心」を「身体」を使って騙せばいい。辛いときや悲しいときには、笑顔をつくる。そういったときに、そんなカンタンにできないことなのは、わかっているけれど、そうしないとまた苦しみに溺れることになる。

 

「脳と心」に支配されないよう「身体」だけでもいいから、着飾ってみてもいいのではないかな。

 

 「脳と心」という支配から脱するために、「身体」を動かし、「行動」を変える。そうすれば、苦しみから少しは解放される。

 

 

2017/07/02

 

 

ときには小さく考える

 

大きなことばかりに目をとらわれていた。

大きなことばかりをやろうとしていた。

 

だけど、あるとき気づいた。もっと「小さく」考えてみないといけないのだと。

 

たとえば、今日は絶対に1時間走ると考えていたのに、それが億劫になってしまってできないことだってある。

 

成果というものは、継続して初めて現れる。

 

だから、「1時間走る」と考えるよりも、「5分」とか「10分」とか走ってみようかなと考えるほうが、自らの中の挑戦魂をメラメラと燃やせることができるし、実際に行動に移すこともたやすい。

 

なので、ときには小さく考えたほうがいいこともある。

 

 

大きく考えるのは、頭の中でやるのはおススメしない。なぜなら、考えることは言葉を必要とする。

 

そして、頭の中だけで、大きく考えることは不可能に近い。やったところで、頭の中がごちゃごちゃになるだけ。

 

それは、絡まった糸を解くように、とても難しい。

 

 

 

2017/04/21

やりたいことをやるための大きな夢、小さな目標

 

いつも何かに後悔というか、できなかったという思いを持っている人は多い。ほら、先人たちも語っている。「やりたかったことをやらなかった」ことに対する後悔を。

 

そういった後悔をしないために、日々努力すること。

そして、大きな夢と小さな目標を持つこと。

 

大きな夢を持つことで、たとえ小さな目標をクリアしても、「ゴール」を見失うこともない。

 

小さな目標をいくつも持つことで、大きな夢に近づくことができる。

 

人の努力は必ず実る。「努力は報われない」という人のことは、ほっとけばいい。努力は継続されて、はじめてその成果が現れる。

 

小さな目標をいくつも超えて、大きな夢をかなえるためには、継続が何より物を言う。努力が実らないのは、まだ、実る「時節」まで来ていないということの証。だから、努力が実らないということは、絶対にない。

 

 

 

 

 

2017/04/21