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■アカホヤより巨大、邪馬台国透視、四國人、一大國、稲、弥生人
弥生人
弥生人は北東アジア系、大和人は東アジア系と言われる
民族移動が限定的と仮定すれば、
弥生人は日本海と満州地域(北朝鮮北東、中国吉林・ハルピン、ロシア南東)の技術職人らとの交流の痕跡があり、
製品だけでなく、日本海人から満州地域へ、満州地域職人から日本海へと人の循環もあったと考えられる
縄文人と人的交流・交雑の深い人々が行き来し、紀元前後に掛けて南西から前漢・後漢、北西から北方騎馬民族の進出・領土拡大があり、
最終的に大挙して日本(主に日本海側)へ移住する事になった
縄文人と既に交雑のある現地混血人も多かった事が遺伝子の縄文・弥生半々の構造によりほぼ確実視される
単に異民族が来襲しても、当時の移動困難さからも、日本列島広域にその構造が広まる事はありえない
そして遺跡にも日本海側各地に大陸北東特有の文化が急に増えている
日本海側に今なお技術職人が居るのは、冬季春季に大雪が積もるようになり、農閑期の職として発達したのはあるのだが、
既に弥生時代中・後期から先端技術製品が大量に出土しており、先祖代々の職人家系が多く住んでいたと見る方が自然である
稲
また大陸移民は乾燥地帯穀物の麦、アワ、キビなどを持ち込んだと考えられる
日本では麦は上手く育たず、アワとキビが瀬戸内海地域で量産された
農業生産國と、加工品製造國に分業し、加工製品を現金代わりに食糧を得ていたと考えられる
稲作は大陸から伝えられたのではない
水田稲作は大陸の急激な寒冷・少雨に見舞われ(地層や化石類から確認されている)、
雨の降る南方へ移動し、現在の雲南ー香港を流れる珠江流域に自生する稲を、
海退により巨大三日月湖の多く誕生した長江流域に持ち込み、
インド北西、現在のチベット方面の別種稲と土器を発明した文明移民と、日本列島西部から移住していた縄文人とも合流し、
気温急低下・少雨に対応し、やむを得ず造られたり転化利用したのが水田である
日本列島は雨が定期的に降る為に水田稲作に依存する必要がなかった
九州から水田が始まったのは、火山灰土壌に山と湿地の極端な地形といふ農作不向きの土地から必要必然と言える
水田稲作の土地を求め、九州王国の王族が瀬戸内海や丹波へ移動した古史古伝の伝承が複数残されている事こそ、水田稲作を拡大させた張本人
稲及び水田稲作は大陸に避難した縄文人であり、
大陸北東人の多い弥生人が水田稲作を持ち込み、しかも日本中に普及させたなる学説といふのは、
赤道直下に住むアフリカ人が氷河地域にエスキモー生活技術を伝えたといふぐらいの、明らかに整合しないと判って来た
更には、abcdeのイネ遺伝子型からは、
先ず朝鮮半島のイネは日本には存在しない遺伝子型が多く、朝鮮半島から日本に入って来たなるが絶対有り得ない、
朝鮮半島のイネは大陸北東部の寒冷地種が誕生した後に伝えられた事は証明されているが、
同時に、中国大陸から日本に伝わったのなら、古代中国種の遺伝子型がそのまま伝えられるはずだが、日本にあるイネの遺伝子型は古代長江品種の一部のみ
これは不可解な事
となると、中国大陸から日本へ持ち込んだといふよりも、
日本で自生していたイネ(涼しい地域で育つ粒少し小さく水分弾力ある)を長江流域に持ち込んで、長江に日本自生品種の遺伝子型が加わったから、
日本に一部の遺伝子型しか無く、古代長江には大陸遺伝子型と日本の遺伝子型の両方があったと考えるのが普通
遺伝子解析の発達で確証・断定出来る事象が増えたので、長年の定説がひっくり返る
考古学の権威の人は、立場上、通説を後押する事しか出来ないので、最新の解析結果に対しても、定説に疑問を呈する結果なのに、「定説を裏付ける間違いない事実」とか平気であべこべを言っている
肩書きを見て凄い人だ、だから絶対的に正しいみたいに考えてはいけない
警察だって捏造日常的で犯罪もするし、大臣や官僚トップだって外国の利益の為に自国を売るし、
一昔前は大学へ行ったと聞いただけで凄い頭の良い博士とか思われていたんだから
んな事あるかいwww
かつては進学率低く私学は学生不足で経営苦しく、学費さえ払えれば殆んど入れたし、
素行悪い子や頭の鈍い子が、社会出すと家業ある家は恥かくので更生と信用調査凌ぎ、発育の時間稼ぎで行かせたりなんかもあったり
うん、昔は昨今で言う不良少年はそのまま任侠組織の若い衆だったから、堪え性なく面倒見切れない者は、鉄砲玉か大学行かせ堅気企業に就職させた
戦前生まれにさふいふ知人居る
戦後の親分は著名大卒多かった
実はゴロの強いお金持ちのお坊ちゃんがカリスマ性と資金力で、悪さしてる不良達を集め、或いは集まり、シノギや抗争させてる構図
なので学界中枢の偉い人を呼んでも、定説を覆す系統の話は、精々「検証中」とかに留め殆んど進まないので無意味
寧ろ個人で自由に発言出来る立場の人でないと古来の通説以外の事は話せない
一大國・末盧國の怪
一大國が壱岐島なのは、大が支の草書体に酷似しているので写し違えた可能性があり、
支は飛鳥時代以前の遺跡で「き」の当て字(借字)に使われている例がある事から、一大=一支=イキと解読した為
末盧國が松浦地方(現在の佐賀西部〜長崎北東)なのは、発音の酷似から
伊都國も糸島との発音酷似
奴國は志賀島の金印の発見から、その近隣と否
比定された
不彌國は残存する近似発音地名がなく、伊都國ー奴國と距離か同じ事から、その延長で奴國から東方に大まかに比定したもの
しかし何れも確定ではなく、恐らくそうではないかといふ、尤もらしいといふレベルでの暫定の地でしかない
末盧國から500里も陸路を行き、同じ東シナ海・玄界灘沿岸の國に行く事に不可解とする声が聞こえて来るようになった
一応、外国の使者に地理を掴まれない為に、目眩ましに意図的に歩かせたといふ推論もあるが、
朝貢して軍事支援を頼んでおきながら、舟で行ける場所にわざわざ推定5日間も、真夏の高丈雑草林を意図的に歩かせるといふのはあまりにも失礼千万な話である
少なくとも知られたくなければ、他の地にある御所に案内すれば良いだけの話だ
邪馬台國に行けず火巫女とも恐らく会えていないので、行くのに1月と10日、往復2月と20日と聞いて諦めたとも思えるが、
大陸は馬で移動するから広域を統治支配出来るのであって、そんな連絡移動に3カ月もの時間が掛かる國では、指揮命令系統が全く機能出来ておらず、
いざ外国水軍船団の襲来に遭えば、軍の召集が丸で遅れ、全くの無力といふ事になってしまう
そんな防衛不備の國に、厚遇してまで援軍を確約するか?
倭國太平洋側は呉と交流が深く、先に日本海側の國と正式同盟を結び、そこに国内統一させればといふ、敵対國友好の倭國の出し抜きの目的が大きいが、
倭國國内が分断してしまえば、魏の援軍どころの話ではなくなる
なので、不彌國ー伊都國の長距離での陸路移動は、
船だと遠回りになる、又は中規模船だと渡航が危険な急流の場所を陸路で回避し横断する為と考える方が妥当ではないか
例えば、北九州ー下関の関門海峡の回避や、日本海ー瀬戸内海への縦断など
関門海峡回避なら、一支國が糸島(当時は入江のある出島だった)又は宗像大島で、
降船の末盧國が宗像・遠賀・水巻、
そこから伊都國は門司区・小倉南区・京都とかのような
遠賀の芦屋は、縄文後期から弥生時代、船の一大停泊地で、
そこで葦船を補強したり新たに製作する、船のサービスエリアだった事が判明している
外国船や交易船が立ち寄るとすればここであろう
まあ鉄斧が出来てからは木製船になったろうけど、記録からはまだ祭祀具として鉄器が多くあると書かれているので、
大規模船舶市街地としてはまだ健在だろう
日本海ー瀬戸内海縦断だと、一支國が島根の隠岐島(記録の大きさと地形は合致)、
末盧國は丹後半島、そこから丹波を通り琵琶湖の西なり奈良湖の西なりに向かう
丹後半島は突出して、陸地の末端といふ事で末盧と呼ばれていた可能性はある
飛鳥〜平安時代も、多くの軍船は若狭湾に帰還している
言うまでもなく、若狭湾は丹後半島を右折して回り込む
また海部氏の通り、丹後だか丹波から尾張に出るルートが非常に重宝され、古墳の出土により奈良大和より尾張の方が発展していた痕跡、
そして若狭湾から当時巨大だった伊勢湾へ出る事で、紀伊半島南の黒潮直撃を避け、安全に伊豆半島へ、そして古代の最大交通要衝の房総へ行き来する為の玄関口なので、
丹後〜若狭を末盧國、
琵琶湖北東の湖畔(長浜、米原)が伊都國、
いなべ・大垣付近を奴国、
桑名・海津が不彌國で海に出る
或いは、一支國隠岐島から、
末盧國が福井東部・石川西部(越前・加賀)、
そこから糸魚川または諏訪湖方面に向かう
当時の能登は海峡で寸断されていて急流だったので、
中規模船だと大きく能登を回り込むか、沿岸陸路を行くしかなかった
地理的に分断されていた事で末盧と呼ばれていたとも推測される
少なくともそのやふな地形物理的な要因がなければ、援軍を頼む大國の使者を、末盧國から推定5日間も掛けて大変な山道を歩かせる理由は考えにくいだろう
もう一支國と末盧國から違っている可能性があると考え直す必要があるのかも知れない
四國渡来人の怪
四國に帰化人か多いといふのは、四國に外国人が多いといふ事ではなく、
現在の日本人の基本DNAを構成していると考えられている、日本海側に大挙連れて来た伽耶や百済の倭系人のうち、
四國に送られた人は、沖縄や北海道同様に移動が困難な為に、移住当時のDNAが薄まらずに残されているといふ事
沖縄と北海道は逆に伽耶・百済からの移民が殆んど送られていなかったので、古代大陸遺伝子があまり入らず弥生人構成が色濃い
透視の火巫女
月の基地と地球の山にある地下帝國とそこに居る異星人、ソ連の施設内潜水艦開発などを透視し、
東日本に大きな津波が来ると番組出演の度に予言していたマクマニゴ(マック・モニーグル)による火巫女・邪馬台國透視
明確に断定していたのは、箸墓古墳には火巫女は居ないといふ事
火巫女の死のずっと前に造られた墓だと言う
奈良は、明治政府による東京日本一政策の為に、超絶米税収石川県を富山と分離させたのと同様、税収と人口で初期の東京を上回っていた大阪の規模縮小に分離独立させられた國だから、
今の権威が存命のあと20年は言わせてあげようwww
魏の使者が来た時に、既に火巫女は奈良へ来ていたと言っている
火巫女の祈祷・透視の地は三輪山の直ぐ南の鳥見山(奈良に同名山あるが桜井市の方)で、
火巫女の更に千年前から既に祭祀聖地として使われ、地面をもっと深く掘れば痕跡が出て来るはずだと確信の笑みを浮かべた
現地視察するなり、かなり大きな火を焚いて祈っている姿が見えると言っていた
ここは四國から続き和歌山から北上する中央構造線の最北の断層の近くとか?
そう言えば鬼道と言いつつ、鏡を使っているような魏書の記録文があるが、それは正に銅鏡道教
徐福が倭國で国教に改宗しようとして、出雲本拠に拒否された宗教そのものではないか?
透視では火巫女の祖先は西方から中国大陸を東移動し、
ベトナムー台湾から伊豆大島経由で熊本へ入ったとしている
吉野ケ里遺跡を含めたクニの痕跡は、火巫女祖先(ヤマト族=ヘブライ語で神の子)が聖地としてそこに居た証拠だと言う
火巫女は出雲の大王(大國持)の姪であると同時に、分家となった父方が治める九州北部と長門にて、徐福やその子孫と姻戚関係になっていた可能性があるといふ事でもある
出雲で道教改宗に失敗し東西の大王2人を監禁死させ、
それが知られぬうちに福岡の宗像氏に入り、
その息子が物部氏勃興の立役者となったといふ伝承が残されている
火巫女の父親の統治國域は、長門(火巫女生誕地)、筑前・筑後、肥前・肥後(北部)としているので、
徐福が出雲から逃亡し、改めて名前を変えて接近した宗像の地がそこにある
もしかしたら火巫女の祖先は出雲の血を受けながら、徐福子孫の娘を娶ったか、九州で婿養子として迎え入れ、
そこで予言がズバズバと当たった事から、改宗ではなく占術の方法として道教を取り入れ、娘に修行させたのかも知れない
出雲大国主と九州&長門分家の道教祀神の並列に大きな争いが起こり、道教火巫女を奈良出雲の地に祈祷占術祭祀王として人柱として送った事で、
命と引き換えに占術予言するなら逆らえないと争いは収まったとも考えられる
火巫女の死は透視では肺炎としている
戦前から終戦直後は結核が流行っていたが、高齢者の肺の水分由来の気管感染は現在も多い
しかし一方で皆既日食の記録から、神通力の低下に責任を取ったといふ儀式的天召(処刑)を唱える研究者も多い
透視では、火巫女は夏は奈良の鳥見山でひたすら祈祷占術し、秋になると故郷に同様の皇居を置いているのでそこへ陸路にて冬を過ごし、
途中の出雲には欠かさず立ち寄ったとしている
半年毎の、一団を携えての定期大遷都である
長門が基本だが、福岡に置く事もあったと言う
同じ地名が同じ配置で存在するのは偶然ではなく、定期移遷なら理解出来る
風水的な配置・配列があるのだろう
従仕女性千人で男禁といふのは、宗教施設といふよりそのまま天皇家、朝廷高官らの側室宮ではないか
そこに弟が一人伝達役で入るといふのは、本来なら有り得ず、火巫女が実は巫女に就く為に女性として立ち振舞わせた説があり、
だけらこそ顔を見せなかったり、箸墓伝説に、夜しか会えないので、皇子がどうしても昼明るい時間に会いたいと懇願し続け、
そして会ったらヘビの姿とあるのは、股間にヘビのある人だったとも受け取れる
弟として屋外へ出て朝廷から相談を預かったり、食事や排泄、洗体し、食事の給仕や洗髪・排便受けと称して室内に戻り、火巫女になり、
たまに髭を剃り忘れて悲鳴が上がり、ハッとして
「洗濯物を預かった弟です、シワにならぬよう着て行きなさいと言われました」
と、白塗りの顔のまま苦しい言い訳をしてやり過ごすなど、名探偵コナンや怪人二十面相したり
「どうりでタンパク質のニオイと黄ばみがいつも着いていると思いましたわ」
とか洗濯侍女にシレッと言われ、
「き、近親何とかちゃうわ!」
と一応、念を押しておくべきか頭フル稼働で考えあぐねるアグネスちゃん
外で食事して火巫女役の自分に届けると高齢者には苦しいので、共に少なめ粗食で一日8食しないといけない
「あたしゃ、ギャル曽根か!」
と独り言が増えたりして
魏略、魏書にある記述の明らかにおかしな箇所を解決出来るならこの説
邪馬台国の航路が2つあり、構造だけ詳しく書いて、位置に関しては女王国に総まとめにしているのも、
邪馬台国メンバーが大挙して季節移動しているとすれば説明が付く
それでは一曲、松山千春で季節の中で
♪んめぇ〜〜〜〜ぐぅる〜〜〜〜
♪巡るぅ〜季節ぅのなぁ〜〜かでぇ〜〜〜〜
モノマネのせいで、何秒伸ばすかに命を懸けてしまう
厳密には、伸ばしても聴き心地悪くなるので、どのタイミングで切ると滑らかに次のメロディに繋がるかのテクニックが要る
火巫女の邪馬台皇居の見取り図も透視し描いていたが、
警備兵の居家も小部屋が一杯
侍女の千人部屋は、大部屋に布団敷いて敷居があるだけの悩ましい声に包まれる場所かな?タコ部屋かな?
租庸調的なものは最初からあり、もはや縄文時代・磨製石器時代から職人集団による分業の痕跡がある
邪馬台皇居には、大勢をすし詰めに寝泊まりさせるべく、小部屋に仕切られた大きな建物が幾つも存在していると透視している
そして山の下には、農作物を作って上納する農民も大勢住んでいる
農民だけだと、一家で広い田畑持っている為に人口密度的にスカスカで、兵隊の数集まらないんですって
兵隊には特定の箇所に大勢住まわせて交替で警備させたり、建築土木に鉱物採掘など力仕事で使ったり
山の周囲の農民を二重三重の環濠人柱にして、野菜類の畑栽培、
日持ちする稲穂米は女王国全国から上納させるから大丈夫と
邪馬台国七萬戸、加賀百三十万石といふ魏略・魏書の記載は、
一般家庭よりも、邪馬台皇居に従事する単身の侍女・警備作業夫たちの小部屋群を見て、敢えて人口ではなく戸数にして読み違える工夫をしたとも思われる
因みに人が増えると、その排泄物や生ゴミ、埋葬遺体による病原菌の繁殖が凄い事になるので、
何年とせず、夏の来る前に延々と遷都する必要があったともされる
長期御所があるのは、海への急流河川が近くにあり、尚且つ人糞をしっかり天日干しにして肥料に転用したのかとも思われる
川の流れが緩やかだと、人糞が溜まって行き悪臭を放つようになる
鬼界海底火山巨大噴火より巨大
何年前と言うと、今の還暦の人が学校で教わった50年前に判明したら50年加算し、今義務教育を受けている子供達が還暦になったら更に50年と合計100年追加と面倒になるので、
紀元前何年(頃)と表記して、共通表示を一生使いたいところ
2006年、福井若狭町にて、年縞による誤差34年/1万年といふ高精度年代測定を確認した所、
既に測定済の屋久島縄文杉の年輪測定と、炭素C14半減率測定などよりも、誤差が非常に小さく確実性があった
これによると、薩南・大隅諸島巨大噴火(鬼界アカホヤ)が、7253年±23年前と結論づけられた
これが2006年のボーリング調査採取の時点なのか、年縞博物館に展示された2018年に採取した時の物なのか
もうこの時点で12年ズレてしまい、
更に年々「◯年前」を繰り下げて加算しないといけないなど、
「◯年前」は意外と面倒なのである
これを最初から
「紀元前5250〜前5296年、中間値・前5273年」
としてしまえば、毎年更新する必要が無くなる
そしてこれより遥かに巨大な噴火が、9万5000年前の阿蘇山の超巨大噴火となっている
こちらは若狭・年縞測定法で採取した7万年前より古いので使えず、向こう500年以上は同じ年代数値で良く、万年単位と大きい数値なので、
こちらは◯万年前を使う
他の場所から年縞取ったら判明するのに
20万年前±5万年と測定されている幣立神宮の石碑ペトログリフ
12万年前の加工石器の発見された島根・砂川遺跡
日本の西日本の超古代遺跡が10万年前からピタリと消えて見つからないのは、この阿蘇山の噴火である
裁判傍聴タレントの阿蘇山大噴火はこんな大それた名前付けて荷が重すぎて押し潰されてしまわないだろうか?
砂場山大崩落とか、悪ガキにクラシュされコラーーー!!とゲンコツ喰らわしたら、
聞いた話すぐ鵜呑みにする頭の悪そうな母親が出て来て、アベコベにこちらが往復ビンタされ
この親にしてこの子あり、国破れて山河あり
♪ジャカジャカジャ!
♪ん〜マツケンサンバ〜〜〜っ
みたいな台本が直ぐ思い付いてしまったではないか
原始縄文人は、陸続き時代に入植したナウマンゾウ・マンモス・オオツノ鹿と旧人・原人は絶滅し、
12万年前は九州ー朝鮮半島は海峡の急流で隔てられ、舟でしか入植出来なかった時代の航海入植と多くの研究者の論文から知った
阿蘇山の火山灰は北海道全域まで包み込み、薩南・大隅諸島巨大噴火(アカホヤ降灰大噴火)の6倍ぐらいの規模だともかかれている
彼らがペトログリフ使いで、阿蘇山超巨大噴火で一度日本列島を離れつつ、
再び日本へ来た時には、何故か東北地方にその痕跡が多く、そこから日本海で南下したと痕跡から判明している
本来なら九州から徐々に北上すべき所を、海流に乗って一気に東北(&道南)から南下といふ不可解な上陸痕跡は、
この阿蘇山巨大噴火の火山灰の回避でやむを得ず迫られた上陸だったと十分考えられる
9.5万年前の不人気総理大臣は、中川大臣に次ぐ国際金融スパイの財務省と日テレ讀賣新聞による指示された台本通りの、自民党野党下野までのネガティヴ・キャンペーンだったと判る
それは麻生さん
今言ってるのは阿蘇山(あそさん)
まあ難しいよね
東大文1合格者でも数人は間違うだろう
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■シエンタ・トカゲ(2023年3月5日)
以前、会社で車を買い換える(税金対策とも言う)ので、
よく解らないので1台1台ディーラーで中を見せてもらったり、試乗運転させてもらった
住宅地用には、トヨタはシエンタかポルテが、乗り降りの楽さ、荷物積載両方で目星付けました
ポルテは
3ドアの2列シートで
助手席側のオートスライドドア

脚の弱った高齢者にはとても楽
しかし左からしか降りられないのがネックだった
右にもオートスライドドアがあれば一発決定でしたが
オートスライドドアは、
お客様に自分で開けさせるのが嫌で、
かと言って走って手で開けに行くような仕事関係でもないので、
オートドアだと丁度よい按配なので

斜めにズラせば、自転車(ママチャリ)を寝かさずに、立てたまま入れられるのはポイント高い
初代は確かシートフラットに出来なかったが、
2列で荷室スペースが広いので積める

一方シエンタは、
デザインが丸目で可愛いのと、

多少狭くはなるが左右オートスライドドアなのが助かる

3列目まで使わないので、あくまで万一の予備だが

フラットに出来るので、普段は3列目を畳んで、2列+荷室でいい
自転車載せるには、横に寝かせる形にはなるが、
うーん、プラスマイナスで、シエンタが良いかな
2列ボックスなら、フランスからルノー·カングーも候補だったのだが、
オートスライドドアではなかったので殘念ながら
フランスから左ハンドルのマニュアル車仕入れるまで考えたんですがね
日産がルノーを扱っていましたね
一般家庭の車なら、5ナンバーサイズの3列ボックス(ヴォクシーやステップワゴンなどミニバン)で種類ありますが、
フロアが高さあり、高齢者の乗り降りで段差になるのでダメです
あと、3ナンバーは、狭い住宅地では色々面倒なので、軽か5ナンバーコンパクトです
あと、ポルテについて訊いたディーラーは、凄い無愛想な偉そうなオッサンが、丸で部下と喋るみたいにぶっきらぼう横柄で、
そんなにお客と話すの嫌ならいいやってなりましたが
(翌日、何も言ってないのに真っ青な顔をして支店長が会社に飛んで来ました。 うちは以前何十台も納車してるお得意、いやカモさんですが、忙しい中、向こうの利益の為なのに一々応対させられるの面倒なので来なくていいのに)
一方、シエンタで行った別のディーラーは、
凄い育ちの良さそうな女性店員さんが、物凄い懇切丁寧に対応して下さいました
話しているだけで幸せになる人っているじゃない
でも車の選択に接客は関係ないんで、
結局全く別のメーカーの車買ったんですけどねwww
あれから何年かして、ガールズケイリンとかいうのが、始まる詐欺が何年も続いた末に、本当に始まったんですが、

京王閣競輪駐車スペースに見えた実車
あの、コストパフォマンス最高のシエンタが止まっていました
チラッと見えただけで別にそれっきりでしたが、
どこかの開催でトカゲビキニが乗ってました
京王閣に高校生みたいな子が練習来ていたの聞いていましたが、受かって卒業したんですね
いやあ、レースやキャラクターは知りませんが、
親の物かも知れませんが、多分金運とかありますよ

そりゃあストコーC1外回りの谷町ジャンクションで200kmから300kmに上げる途中の映像に高評価殺到中しますよ
乗ってる車で気に入ったのはこの子だけです
最近出走してないんですね
それでは一曲
「みゆたん、亀は好きですか?」
(作詞:たかぎまきび、作曲:小室哲哉、編曲:久保こーじ)
唄:
↓

「ママはプロのモーターボートレーサー」って曲にしてよ
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