人が「論理的」と言うとき、どこか冷たい印象を受ける人もいるかもしれない。
それには、「論理=感情を排除するための道具」という響きがあるからだろう。
特に最近では、「ロジカル・ハラスメント」という言葉も見かけるほどだ。
僕自身も仕事をしていてそのような空気を感じることが、多々ある。
しかし、それには大きな誤解があるように思う。
論理とは何か
論理というものは本来、
判断や仮説の精度を上げるためのものだ。
ところが世の中には、その判断を歪める詭弁やレトリックであふれている。
そもそも、人が「論理」という言葉を使うとき、それは何を指しているのだろうか?
理路整然とすること?
理屈を並べること?
小難しく説明すること?
どれもあながち間違ってはいないが、
本質はそうではない。
もっとシンプルに表すならこうだ。
論理とは、言葉と言葉の関係性である
「AだからB」
「AかつB」
というように、言葉をつなぎ合わせたものと考えればいい。
それには簡単なものもあれば複雑なものまで様々だ。
しかし、ただつなぎ合わせるだけでは十分とは言えず、それは真理値を保存する構造でなければならない。
つまり、「前提が真なら、結論も真になるか」が問われる。
なぜ、論理は必要なのか
本来、この問いはナンセンスだ。
「論理はなぜ必要なのか」と問うこと自体が、すでに論理の土俵に乗っている。
なぜなら、その問いは単なる叫びではなく、理由を要求しているからだ。
理由を要求するというのは、「AならばB」という関係、つまり論証の形式を前提にしている。
ここから逃げることはできない。
とはいえ、この種の自己言及だけで話を終えるのは、いささか不親切でもある。したがって、あえてその前提に乗ったうえで、説明を試みよう。
例えば、
言葉と言葉のつながりに矛盾がある場合、それは「論理的に間違っている」とか「それは非論理的だ」と言ったりする。
(「Aであり、かつAではない」など)
こうした間違いは矛盾に限ったものではなく、
詭弁やレトリックなどさまざまな形で現れてくるのが厄介なところだ。
論理という点検機構がなければ、
人は間違いを量産し、やがては世界を不幸にしてしまうだろう。
それは陰謀論や代替医療、カルト宗教のような美辞麗句で固めた、
世界についての真実を覆い隠してしまうような物語へといざなうものだ。
もっともらしい物語が論理の点検をすり抜けたとき、人は現実を見失う。
論理は感情の敵ではない
だからそういう意味では、
感情論に基づく判断も点検対象だ。
だがそれは、
「相手の感情を否定すること」と同じではない。
どれだけ論理が綺麗に整ったところで、相手の感情までを悪にはできない。
その人の感じる怒りや悲しみは本物だ。
論理が問題にしているのは、感情そのものではなく、それによる判断の妥当性の方だ。
この、感情論と感情という似て非なるものの混同が、論理を冷たいものにしてしまっている。
それどころか、むしろ人間の感情を守るための最も信頼できる装置であり、敵ではない。
論理は世界を豊かにする
むしろ、世界をより正確に理解し、より面白く、より豊かに捉えるための道具でもある。
本来それは、世界の温度を下げるものではなく、知性の火を強くするもののはずだ。

