哲学的なひとりごとを書くだけのブログ

哲学的なひとりごとを書くだけのブログ

僕の独り言です。

『僕がこのブログを書く理由について』を参照。
https://ameblo.jp/daiyu1994/entry-12864826625.html



「みんなにとって完璧な選択をしたい」
完璧主義の人は、だいたいこういう無理ゲーを心の中で静かに開催している。

しかし、ハンナ・アーレントが言うように、人間は「多数性」の存在だ。
一人ひとり、見ている世界が違う。
育ってきた環境も、価値観も、怖いものも、嬉しいものもバラバラだ。

つまり、
全員にとって完璧な言動や作品、選択なんて、最初から論理的に存在しない。

それなのに、なぜ僕たちは「みんなから見て文句なしの正解」を目指してしまうのか?
ここには、ちょっとした認知のバグが潜んでいる。

まず、僕たちは他人の頭の中を「平均化」して想像する。
親、友達、元恋人、フォロワー、昔の先生、、バラバラな他者たちを、一つの「想像上の観客」にまとめてしまうわけだ。
そしてその観客に向かって、「どうすれば全員から高評価をもらえるか?」と考え始める。

このとき心の中で使っている「完璧」の基準は、実は実在の誰のものでもない。
それは、他人たちの価値観をざっくり平均して作り上げた「観客の平均値」にすぎない。
でも、僕たちはそのことに気づかず、「これが世間の目なんだ」と信じ込んでしまう。

結果どうなるか?
・少しでも批判されそうな要素は削る
・誰か一人でも不快に感じそうな表現はやめる
・尖った部分や癖はすべて丸める
こうして「みんなにとって無難」なものは残るが、「わたしが本当にやりたいこと」はどんどん薄まっていく。

しかもやっかいなのは、
「観客の平均値」の中には、たいてい過去の否定的な声が強めに反映されることだ。

バカにされた記憶、怒られた経験、笑われた瞬間。

そういうものほど鮮明に覚えているから、「あれをもう一度くらうくらいなら、安全側に寄せよう」と慎重になりすぎる。

心理学的に言えば、僕たちは損失のほうを強く感じるし、目立つ失敗を過大評価する傾向がある。
たとえ9人が褒めてくれても、1人にキツいことを言われると、「あれが本当の評価だ」と思い込んでしまう。
その1人の声が、観客の平均値を大きくゆがめてしまうのだ。

でも、アーレントの視点に立つなら、多数性とは合意するためのものではなく、ズレながら共存するための前提だ。
みんな違う世界を見ているからこそ、「全員満場一致の完璧」なんて狙う必要は本来ない。
むしろ、「ある人には刺さるけど、ある人にはピンと来ない」という状態こそが、人間の世界のデフォルトなのである。

だから、完璧主義に疲れているなら、問いそのものを変えたほうがいい。
「どうすれば全員にとって完璧か?」ではなく、
「どんな不完全さなら、わたしは責任を持って引き受けられるか?」と考える。

その瞬間、「観客の平均値」に合わせるゲームから降りられる。
世界の全員を納得させる必要はない。ただ、自分が選んだズレ方に、自分で納得していればいい。

多数性の世界で生きるというのは、そういう「腹のくくり方」を学ぶことでもあるのだろう。





多くの人は、生きるための準備に人生を費やしながら、実際に「生きる」ことを知らないまま死んでいく。
セネカは『人生の短さについて』でこう言った。「人生は短いのではない。ただ、私たちが多くを無駄にしているだけだ」と。
まるで未来のために今を犠牲にし、いつか「ちゃんと生きよう」と思いながら、その“いつか”が永遠に来ない。現代の僕たちは、その典型例かもしれない。

「準備」という幻想


学校では「将来のために勉強しなさい」と言われ、社会人になれば「今は我慢の時期だ」と言われる。
気がつけば、僕たちは常に「これからのため」に今を延期している。
だが、哲学者キルケゴールが指摘したように、人は「存在する勇気」を失うと、社会的役割の仮面をかぶって“生きているふり”を始める。
彼にとってそれは「絶望」という病だった。
絶望とは、死ぬことよりも恐ろしい、“自分でないものとして生きること”だ。

準備ばかりの人生は、言い換えれば「自己不在の人生」だ。
完璧なタイミング、十分な貯金、確かな自信。
それらを待っている間に、本当の生は静かに遠ざかっていく。

「今を生きること」は安易ではない


もちろん、「今を生きよう」というスローガンは聞き飽きているだろう。
だが、ここでいう「今」とは享楽的な瞬間ではない。
ストア派の皇帝マルクス・アウレリウスは、『自省録』でこう述べた。
「人は過去も未来も手にすることはできない。手にできるのは今この瞬間だけだ。」

しかし、彼にとって“今”とは怠惰や快楽のことではなく、“理性に従って行動すること”だった。
つまり、今を生きるというのは意識的に選び続けることだ。

心理学的にも、行動を先延ばしにする人は未来の感情を過大評価する傾向があるとされる。
ダニエル・カーネマンによれば、人は「将来の自分はもっとやる気があるだろう」と錯覚する。

だが、
未来の自分も現在の自分とほとんど変わらない。つまり、未来の準備は幻想だということ。

死を見つめることが、生を研ぎ澄ます


ニーチェは「永劫回帰」の思想で、人生の選択に鋭い問いを投げかけた。
「この瞬間を、無限に繰り返すことを受け入れられるか?」
もし“準備中の自分”を永遠に繰り返すことを想像して息苦しくなるなら、それはまだ「生きていない」というサインかもしれない。

ヴィクトール・フランクルも同じように、人が生を失うのは「意味の欠如」によると説いた。
彼の言葉を借りれば、
「生きる意味を問うな。生から問われているのは、あなたのほうだ」。
つまり、人生は答えを準備する試験ではなく、応答そのものだ。

未来を手放す訓練


では、どうすれば“生きる準備”をやめ、“生きる”そのものへと踏み出せるのか。
哲学と心理学の知見から、いくつかの方法が見えてくる。

「小さな今」を選ぶ勇気を持つ

まぁ、「今を大切に」と言われても、人生を劇的に変えるのは難しい。
だが、1日のうち意識的に選ぶ瞬間をひとつでも増やせば、それが生の手触りを取り戻す。
たとえば、朝の通勤路でふと空を見上げること、言いかけた言葉を飲み込まず伝えること。
それだけで「わたしが生きている」という感覚が蘇る。

「完璧主義」を脆弱性で溶かす

ブレネー・ブラウンは、完璧主義とは「失敗を避けるための防衛機構」だと指摘する。
準備ばかりして行動しないのは、恥を恐れているからだ。だからこそ、失敗を前提に小さな挑戦を重ねるほうが、人は深く呼吸できるようになる。

「死」を友として置く

セネカもアウレリウスも、死を恐怖ではなく生を整える鏡として扱った。
「今日が最後の日なら、何をするか?」という問いは、浪漫的な哲学ではなく、実践的な人生の技術だ。死を思うことで、優先順位が静かに整う。

「今ここ」に宿る生の証


エックハルト・トールは、「過去は記憶であり、未来は想像にすぎない」と言う。
わたしたちが本当に持てるのは、“今ここ”の意識だけだ。その刹那にこそ、幸福も自由も芽生える。
だが皮肉なことに、「今」というのは掴もうとすると逃げていく。
だから、コントロールしようとせず、気づくだけでいい。
気づいた瞬間、僕たちはすでに生きている。


人は皆、どこかで「本当の人生はまだ始まっていない」と思っている。
でも、それは思い込みだ。
人生はすでに始まっていて、君はすでに舞台の上に立っている。
セリフを準備しているうちに幕は下りる。
だからこそ、たとえ声が震えても、今この瞬間を語るしかない。

多くの人が“生きる準備”のまま死んでいくのなら、僕たちは死を準備しながら生きる存在になろう。




毎日のように残業が続くと、人は「自分の時間がない」と感じる。
これは単なる愚痴ではない。
心理学的にも生理的にも、深刻なサインだ。

時間というのは、僕たちの「生きる力」の燃料そのものだからだ。
スタンフォード大学の社会心理学者クリスティーナ・マスラックは、慢性的な疲労と情緒の枯渇を「バーンアウト(燃え尽き症候群」と呼び、これを人間がシステムに吸い尽くされる現象として描いた。
燃え尽きるのは、体力というよりも意味と希望だ。

スウェーデンの心理学者であるロバート・カラセックが提唱した「仕事の要求―裁量モデル」も、この問題の核心を突いている。
人が疲弊するのは、忙しいからではなく、自分でコントロールできないまま忙しいからだ。
残業が「やらされ仕事」になった瞬間、時間は自分のものではなくなる。
自由の喪失は、生命の縮小だ。
どれだけ給料が高くても、裁量を奪われた時間の中では人は生きている感覚を失う。

行動経済学者センディル・ムッライナサンとエルダー・シャフィールは、著書『いつも「時間がない」あなたに:欠乏の行動経済学』で「不足」の心理を分析している。お金が足りない人が常に支払いに追われるように、時間が足りない人もまた、余裕を失う。
彼らの研究では、時間の不足が知的パフォーマンスを大幅に低下させることが示された。
つまり、長時間働くことで自分の時間を削る行為は、皮肉にも生産性と判断力をも削り取っているということ。

さらに、スタンフォードのジェフリー・フェファーは、職場文化そのものを批判している。
彼の言葉を借りれば、
「人を殺すのは仕事ではなく、職場の制度」だ。日本の美徳化された残業文化は、健康や家庭、人間関係を犠牲にしながらも「努力」と呼ばれてしまう。
これは個人の怠慢ではなく、社会構造の問題だ。ブリジッド・シュルテが指摘するように、時間を切り刻む「タイム・コンフェッティ(時間の紙吹雪)」の中で、僕たちは自由な時間を得たつもりで、実際には心を休める隙を失っている。

結局のところ、残業が奪うのは時間そのものではなく、「自分の人生を生きている」という感覚だ。
心理学者ミハイ・チクセントミハイのいう“フロー状態”は、自ら選んだ行為の中でしか起きない。
強制された労働の中では、心が没入することはなく、存在は次第に希薄化していく。

つまり、生きる力を取り戻すには、単に休むのではなく、「自分で選んだ時間」を取り戻すことが鍵になる。

これは個人の努力では限界がある。職場の制度、社会の価値観、そして「忙しさを誇る文化」そのものを変えなければならない。
働くことと生きることが切り離されてしまった現代において、僕たちはもう一度、「時間とは誰のものか」という問いを立て直す必要がある。

生きる力とは、自由に使える時間の中にしか宿らないのだから。


多くの会社にとって、
社員が読書を通じて多様な価値観に触れることは、必ずしも歓迎すべきことではない。

企業は基本的に、効率性や一貫性、そして組織文化の維持を重んじる。
つまり「みんなが同じ方向を向いて動く」ことが求められる世界だ。
ところが、読書という行為はその反対に、思考の分岐点をつくり、常識や既存の価値観を疑う契機を与える。多様な価値観に触れた社員は、組織の前提そのものに疑問を持ち始めるかもしれない。

それは創造性やイノベーションの種になる一方で、統制や秩序を脅かす火種にもなり得る。

会社にとって危ういのは、読書によって社員が「別の世界の当たり前」に気づくことだ。
たとえば、
権威や上司の指示に盲従しない文化を描いた本を読めば、現状のヒエラルキー構造が不自然に見えてくる。
異文化や異なる経営哲学を学べば、
「うちのやり方が絶対ではない」と悟るだろう。こうした気づきは個人の成長にはつながるが、組織の均質性を崩す。
企業が求める「扱いやすい社員」「空気を読む社員」からは遠ざかる。
だからこそ、多くの会社は表向きに「学びを応援します」と言いつつも、内心では社員が本を通じて思想的に独立していくことを恐れているわけだ。

もちろん、
「多様な価値観を取り入れることこそが、時代の変化に強い組織をつくる」と言う人もいる。
確かに理屈としては正しい。
だが、実際には理想論にすぎない。
組織とは結局、人の集団であり、そこには暗黙のルールと力学がある。いくら多様性を掲げても、意思決定のスピードや方向性がバラバラになれば、経営は混乱する。
新しい価値観を理解するには時間がかかり、その間に既存の文化や効率が失われてしまう危険もある。多様性は、成熟した組織にとっては力になるが、統率力を重視する多くの企業にとってはリスクでしかない。

つまり、社員が多様な価値観に触れることは、企業という装置にとって両刃の剣ということ。

創造性を高める潜在力を秘める一方で、組織の秩序を揺るがす可能性もある。
多くの会社がそれを「好ましくない」と感じるのは、理性ではなく本能的な自己防衛反応と言えるだろう。
組織とは常に「統制」と「自由」のあいだで揺れている。

そして読書というのは、
その揺れをさらに強くする危険な触媒であると。




君はいま、本音で生きているだろうか?

「本音で生きる方がラクだ」
「自分に正直に生きることが大事」

こういったスローガンは、至るところで見かける。
SNS、CM、広告、会社など。
僕も、これは真実であるように思うし、特に最近は、そのように生きれたらとも思っているくらいだ。

しかし、ここで疑問が湧く。
「本音で生きる」というのは、常に善なのだろうか?それとも、何か条件があるのだろうか?

自分が信じていることほど、最も危うい。
だから今回の記事を通して、できうる限りの吟味をし、「本音」(あるいは「建前」)の正体に迫っていきたいと思う。


 本音とは、そもそも何であるのか?


「率直に思ったことを言うことだ」
と言うかもしれない。

では仮に、「思ったことを言うことが本音である」という前提に立ってみる。
そこから、どこへ帰結するのかを見てみよう。

何気ないひと言で他者を傷つける人たち、失礼なことを平気で言う人たち、暴言を吐く人たちも、「思ったこと」を言っているのではないだろうか?

「それは極論だ」
と言うかもしれない。

だが極論に耐えられないなら、前提として未熟だと言わざるを得ない。
そして当然、「本音で生きる方が善い」という命題も瓦解することになる。

未熟な前提で成り立つ結論もまた、未熟なものだ。


 本音と建前の境界線


「じゃあ」
君は言うかもしれない。
「本音を隠して、建前で生きろってのか?」

もし君が、目の前の人間に暴言や失礼なことを言おうとしてるなら、隠してしまった方がマシだろう。

だが、それはほんとうに本音なのか?
そもそもなぜ暴言を吐く?
なぜ失礼なことを言う?

それは、本当に伝えたいことなのだろうか?

よほどのサイコパスでもない限り、
そんなことはないはずだ。

「思ったこと」には必ず、動機や価値観の核があるはずで、それこそが「本音」ではないのか?

つまり、「思ったことを言うこと」は本音を定義する必要条件かもしれないが、十分条件とは言えない。

多くの人は、この点を見落としているように思う。

逆に言えば、
本音の対義語である「建前で生きる」というのは、おもったことだけでなく、その裏にある動機や価値観にまで蓋をし、自分にも相手にも嘘をつく行為だと言える。


 本音の条件


僕はさっき、
『「思ったこと」には必ず、動機や価値観の核があるはず』
と言った。

つまり、本音とは自分の動機や価値を伝える行為である、とも言い変えられる。

これを前提とした上で、さらに「本音」を細かく分解してみよう。

おそらく、以下の4つに分けられるだろう。

①価値

②信念

③欲求

④感情


「本音で話す」ためには、少なくともこれらの内的な状態を認識している必要がある。
しかしこれだけでは不十分だろう。

認識していても、それを本人が拒否すれば本音で話さないかもしれない。
ということは、認識と同時に受け入れている必要もありそうだ。

要するに、
内的状態の認識と受容こそが、本音の必要条件と言える。(だが十分条件とは言えない。理由はあとで説明する)

このように考えると、
ただ思ったことを相手にぶつけるだけでは、本音にも建前にも属さない、単なる衝動的な反応であることが見えてくる。

しかしそうすると、さらなる疑問が出てくる。

内的状態を認識し、受け入れ、
相手に伝えることが「本音」だとしても、
それは、常に善なのだろうか?

何故なら、その「本音」が相手に望まれているとは限らないからだ。
そこには自己一致=誠実=善という短絡的な連想が働いているように、僕は思う。

そしてこれは裏を返せば、建前は常に悪なのか?という問いでもある。


 良い建前 悪い建前


さて、本音が常に善いわけではなく、建前が常に悪とは限らないなら、これもまた分類する必要がある。

これまでの議論から考えると、大きく2つに分けられると思う。

①相手を守るための建前
②自分を偽るための建前

それぞれ見ていこう。

①相手を守るための建前

本音を相手が望んでいない場合、本音を言うことは暴力になってしまうかもしれない。

これは最近では「正論」と呼ばれる。
そのクッションとして「あなたのためを思って」というワードがしばしば使われがちなことは、言うまでもない。

しかし、相手の状況、状態、文脈を考慮せずに、本音や正論を言っても相手のためにならない場面は山ほどある。
例えば、うつ病で苦しんでいる相手に「頑張れ」とか「辛いのはあなただけじゃない」とか。

これは正しいのかもしれない。
それを信じているから言っているのかもしれない。
相手に変わってほしいのかもしれない。

だが、それで相手のメンタルが悪化したり、良くない結果をもたらすなら、本末転倒だ。
君の本音は、誠実な暴力に化ける。

精神科医やカウンセラーは、そんなことを言わない。
何故なら、彼らはうつ病で苦しむ人を守るために存在しているからだ。
だから、むやみやたらに正論や本音を振りかざすようなことはしない。

これが、相手を守る建前だ。
少々極端だが、理解はしてもらえたと思う。

②自分を偽るための建前

問題はこれだ。
これは、見た目としては相手を守る建前と似ている。
だからこそ、慎重に吟味しなければならない。

まずこれには2つの属性が含まれると考える。
1つは自己欺瞞、2つ目は他者欺瞞だ。
しかし、これらは自分を欺くか他者を欺くかの違いでしかないため、個別の考察は省く。

自分を偽ることは、ときに自分を欺き、ときに他者を欺く。

言い換えればこれは、自分にも相手にも害を及ぼしてしまう建前だということになる。

例えば、相手が自分を改善するために本音を望んでいるのに対し、嘘や建前で話すことは、相手を欺くことになる。

あるいは、
会社に誘われた飲み会を断りたいと思っているのに断らなければ、それは自分を欺くことになる。

こうした欺瞞に慣れると人は、自分の大切な価値、信念、欲求、感情を忘れてしまうことになる。
なぜなら、こうした内部の自己認識は、磨き上げられた詐術にとって邪魔でしかないからだ。
不要なものは衰える、これが自然の摂理だ。


さて、そこからどこへ帰結するかを考えてみよう。

少々乱暴だが、
僕たちの一般認識では、
相手を守ること=善
自分を偽ること=悪
ではないだろうか?

ということは当然、
建前=悪といった単純な前提は成り立たないってことになる。
何故なら、建前が良い結果につながることもある、ということがわかったわけだからね。


 本音と建前は、組み合わせで決まる


さて、ここで改めて整理する。
本音と建前はある組み合わせによって決まり、それによって、まったく違う性質になる、ということをここに示す。

ここでは、承認と編集と呼ぶことにする。
承認とは、内的状態を認識し、受け入れていることを指す。
編集とは、=建前のことだと言っていい。

以下の組み合わせを見てくれ↓↓

承認あり × 編集なし=直球の本音
承認あり × 編集あり=相手を守る建前
承認なし × 編集あり=自分を偽る建前
承認なし × 編集なし=衝動的な反応(思ったから言った)

見てもらえれば分かる通り、
本音も建前も、内的状態の認識と受容があるかないかで、その性質が反転する。

そして、これらの善し悪しは、相手の状態や状況などによって左右されるということも知っておく必要がある。


 まとめ

さて、ここらで締めよう。
ここまで読んでもらった君には、「本音とは何か」が理解できたと思う。
まず、本音は常に善ではないし、その反対の建前もまた、常に悪ではない。

それらは承認(あるorない)と編集(あるorない)の組み合わせでによって決まる。

本音と建前の善悪判断は、
自分が何を言いたいかだけでなく、
それが相手の状態や状況、文脈、タイミングに適しているかどうかで決まる。


本音が世界を壊すとき、建前が人を救う
そして、
建前が自分を壊すとき、本音が救いになることもある。