劇団ひとりの「夢空間1DK」というDVDを観た。


 ごく普通のトーク番組のようでいて微妙に居心地の悪い番組。司会の劇団ひとりが微妙に戸惑い、傷付いていくという作りで、劇団ひとりの微妙な表情が堪らない。


 こういう人間の感情の微妙な機微をついてくる劇団ひとりの笑いは大好きだ。そこには必ず「哀しさ」が含まれている。


 というか本当に笑えるものってのには常に「哀しさ」がじっとりと滲んでる。
 たけしも松本もその笑いには必ず原風景のように「哀しさ」が張り付いていて、そこから立ち上る匂いがネタに奥行きと深さを与える。



 マジ歌選手権やオモバカGPでの劇団ひとりのネタなんかそのさいたるもので、トラウマや他人に触れられたくないものをあえて泣きながら晒すことによるヒリヒリ感が笑いとなっている。


 そういえば一番最初に劇団ひとりを知ったのが、まだ劇団ひとりが全く無名の頃、ホントにチープなローカル番組だったと思う。
 どっかの駅前でちょっとしたことをきっかけに駄々をこねだし、地団駄をふみ、しまいには這いつくばって号泣し、のたうちまわっている姿を、カメラがだんだん離れながらも撮り続けるという、かなりアヴァンギャルドな画だった。
 それを観ながら俺はのたうち回って笑い転げたが、同時に妙な郷愁というかもの哀しい懐かしさを覚えたのを今でも覚えている。なんか子供の頃の記憶に直結したのかもしれない。



 だいたい「劇団ひとり」って芸名からして哀しすぎるよな。
 最初にその名前を聞いたときから俺の大好物だ!と思ったのも覚えている。哀しいけど笑える。いや、哀しいから笑える。名は体を表すなぁ。
 ライブ観戦が趣味という人に比べたら圧倒的に少ないけれど、それなりにライブというものは観てきた。


 それこそクラプトンやポールマッカートニー、ジョージハリスン、クリムゾン、といったロック・レジェンドや、清志郎さんや矢野顕子さんといった天才、エレカシや奥田民生、ミッシェル・ガン・エレファントといったロックのお手本、あるいは巻上公一さんのヴォイスパフォーマンス(精神に栄養を注ぎ込まれるようなパフォーマンスだった)のような前衛的なもの、はたまた伝説の第一回第二回フジロック(ビョークのステージはあまりにも濃厚すぎるエモーションの放出で、感動のあまり虚脱してしまった)も死線をさ迷いながら観たし、知り合いのバンドのライブは無数に見ている。


 しかしそのなかで最も「ライブ」というものをリアルに実感し、自分のライブに対する考え方を強烈に決定付けたのは「opus」、オーパスというユニットだ。



 これはヤマサキテツヤさんという、俺が生まれて初めて叩き上げのミュージシャンの恐ろしさを思い知らされ、トラウマにさえなった(笑)ドラマー、プロデューサーの彼が一時期やっていたユニットで、日本のジミー・スミス(というと本人はどう思うのか分からんけど)こと河合代介さんが自分のハモンドB3を持ち込んで参加した超豪華ユニット。
 で、このユニットのファーストライヴと二回目のライブを観たんだが、なんとどちらもライブハウスという至近距離で見るという実に贅沢なライブを体験してしまったのだ。確かそんときはワイセッツ全員で行ったな。



 で、ファーストライヴを観たときは、本当に凄い音楽、凄いグルーヴというのはここまで人の体を揺さぶり、脳ミソをシェイクし、思考停止させてしまうもんかと、驚きおののいた(笑)。どんなロックレジェンドのライブでも味わえなかった本物のグルーヴの凄みを感じたなぁ。


 で、そんなもんを味わったら次も絶対!と思ってセカンドライヴに行ったら、これが全然気持ちよくなかったのだ。
 演奏にミスがあったわけでも、ステージトラブルがあったわけでもなく、相変わらず凄まじい演奏をしてたし、勿論自分の心のバイオリズムが不調だったわけではなく、むしろ純粋に魔法のグルーヴに体を委ねようと(俺としては極めて珍しく)シンプルな気持ちでライブに挑んだはずにも関わらず、全く魔法が感じられなかったのだ。
 で、なんでだろう~なんでだろう~(古いねどうも)と不思議がってたんだが、MCの時にハタと気付いた。どうもメンバー同士のトークセッションがぎこちないのだ。普段は関西出身のヤマサキテツヤさんを筆頭に皆さんほんとにショーマンシップに溢れる爆笑トークを繰り広げるのだが、その日は妙にギクシャクしていて、シラケた空気がステージに漂っており、会場にもモロに伝わってきた。で、とっととMCを切り上げて曲をやり始めるんだが、やっぱりテンションが上がりきらない。
 問題なく凄い演奏で、耳ではそれを認識できるのに身体は反応しない。
 身体は実に正直なもんで、たとえ俺が大嫌いなジャンル、ヘヴィーメタルとかブラコンとかだとしても、本当にいいグルーヴがあれば「口ではイヤだイヤだと言っても身体は正直だなぁグヘヘ」と自分を辱しめられるのに、オーパスは自分が大好きなジャズファンク系にもかかわらずまるっきりコない。



 終わったあと「なんでなの?」と本人に言質は取りたかったが、恐ろしいので(笑)出来なかったけど、多分あの日はメンバー内になんらかの不和があったに違いないと、そうふんでるんよワシは。



 で、思った。「ライブ」を「ライブ」足らしめるもの、「グルーヴ」を「グルーヴ」足らしめるものは、実際に出ている音そのものよりも、その場に存在する「空気」そのものに他ならないと。



 勿論いい演奏がそれを誘発するから音は大事であることに違いないんだけど、たとえミストーンがあろうとも、たとえハプニングがあろうとも、それが音楽的にグッとくるミスであったり、憎めない人間性が誘発したハプニングであるなら、むしろいいグルーヴを爆発させるための燃焼材になりうる。


 
 逆にどんなに完璧で高度な演奏をしようとも、そこに音楽やライブに対して肯定的な気持ち、正直な人間性が滲んでこなけりゃなにも伝わらないし気持ちよくない。シンガーソングライターのバックでいかにも「お仕事」っぽいヌルイ演奏しているバンドを見るたびにその認識を強くする。まあそれはそのシンガーソングライターの責任だけど。



 図らずも俺が観た二回目のオーパスは、どれだけ百戦錬磨で精神のコントロールなどできて当然のプロ中のプロでも、音楽に対しては真摯なユニットであるからこそ、微妙なバイオリズムの食い違いが「正直」に伝わってしまうというライブ、生ものの残酷さを顕在化したライヴであったんだと勝手に理解している。一回目のライブが奇跡的なライブであっただけにより強くそう思う。



 で、こんな発見を自分の音楽に反映させない俺ではない。ワイセッツ会議というか飲み会でもさんざっぱらこの二回のライブの比較検証をやった記憶がある。
 で、俺の短絡的な所は、ハプニングやアドリブを敢えてやれば、それに誘発されて緊張感が生まれテンションが上がり、スリルのあるグルーヴが現出し、お客さんに突き刺さるんではないかと図式化して捉えてしまったところだ。



 楽曲の構造としてそういったハプニング要素を盛り込みやすかった「またぞろ一人」や「ハカマハケ」にはそれが顕著に現れ始めて、さぞかしメンバーはめんどくさかったろうと今は想像出来るのだが、そんときは頭に血が上ってるからしょうがない。
 次第にほとんどの楽曲においても歌い回しやリズムを変えたり、ギターソロなんざ全部アドリブで、という元々あった癖がさらに加速をつけて暴走してしまった。



 今だにそういう実験意欲を否定する気は更々無いが、ハプニングは本当に予期しないところで起こるからハプニングなのであって、誘発してどうのこうのではなく、むしろそれを毎回やってるとそれこそ予定調和になる。という観念地獄になってしまった。俺みたいなタイプの人間の類型的な例だ。


 後々になって気付くのだが、たとえアドリブやハプニングがなく、既存の音源を丸っきり再現してるだけだとしても、そこに真摯な気持ち、高い熱量があれば同じように音楽の魔法は生まれえるということ。まあそれはまた別の話だが。



 そういえば音楽マジックを芯から体感したライブがもうひとつあった。シンガーソングライターのハシケンさんのライブだ。


 これまたドラムにヤマサキテツヤさん、ベースに岩井エイキチさん、河合代介さんのオルガンという最強のリズムセクションを従えてのライブで、勿論文句なしにカッコいいグルーヴだったんだが、本当に音楽の魔法を体感したのはそのバンド隊の前半が終わり、ダブ専門(かどうかは分からないが)のリズム隊を迎えた後半のダブセッションだった。



 このときのダブのグルーヴがどれだけ凄かったかを表現する言葉はこの世に存在しないが、音楽によってここまで空気って変わるもんか、ここまで身体に悦びをもたらすグルーヴってあるもんかと、自分の全細胞が反応していたことだけは確かだ。
 一緒に行ったワイセッツの面々も同じことを思ったはずで、ライブ終わりに渋谷のお好み焼き屋で酒を呑みながら、広角泡を飛ばしながら「如何に凄い体験をしたか」を話したことをよく覚えている。



 やっぱりこういう体験って生じゃなきゃ味わえない。
 俺なんかはどちらかというとヘッドフォンで音の隅々を味わい尽くす方が好きという典型的なインドア派のリスナーで、よっぽどのことじゃなきゃライブにいきたいと思わない不義理な奴なんだけど、こんな俺でも最終的には音楽は生に限るっていう結論に至る。



 オンエアーって言葉があるが、その場の空気に放たれ、そして消えていく儚い「生もの」の音の方にこそ、心の中に永久保存されるかもしれない魔法がある。まあそうならなず一瞬にして心と体を通りすぎていく音楽の方が圧倒的に多いけどね(笑)。



 でも、たとえこの世の九割九分の音楽がクソで、一分しか本物のグルーヴが存在しないとしても、音楽の魔法を信じる気持ちは消え失せない。


 困ったもんだ。
 ここ数日は時間があれば高峰秀子さんが出演した映画を観ている。


 で、そうなるとどうしても成瀬巳喜男監督特集になってしまう。何年かぶりの成瀬リバイバルだ。


 成瀬映画はどれもこれもかなりウェットだ。問題解決してスカッとするとか、ダイナミックな展開でワクワクするとかは一切無い。


 いつも人間のエゴや悩みが渦巻いていて、かといって怒りとか苛立ちが大爆発するほどでもなく、しくしく泣きながら人生のどうしようもなさを背負い、問題は解決しないまま日常は続いてくという感じで映画は終わる、というのの繰り返しだ。


 こんなことを聞いて誰も成瀬監督の映画を観ようとは思わないだろうけど、これが一辺癖になると止められなくなるのだ。


 で、そんな成瀬監督の作風にデコちゃんの少し不貞腐れたような顔が実にしっくり来るのだ。たとえ笑っても心がどこか晴れてないような、含みがあるような顔。


 昭和20年代から30年代の映画にはお手盛りで粗製乱造気味の、勧善懲悪でうそくさい御都合主義や、白々しい健全さが目立つ映画が少なくない。ま、それは今も同じか。
 そんな中にあってさすがは成瀬監督、今の時代に観てもなんら遜色の無い普遍性がある。


 成瀬作品には黒澤監督のような青年性、問題提起をして社会を変えていかんとするようなダイナミズム溢れる映画とは一線を隔す、大人の品ある「諦観」、俯瞰で人間をじっくりと観るような落ち着きがあって、観ていて心地よい「距離感」がある。
 小津作品と同じように20代に観たときとは違う感じ方が今はある。まさに「忘れた頃咲く花」のような作品群ばかりだ。


 色々諦観だの距離感だのウェットだのと綴ったが、ま、そういう気分なんだろうね、今(笑)。


 さてそんな気分でもロックする、いやそんな気分だからこそロックになる(笑)。ワイセッツのライブの詳細です。


1月29日(土) 「夜の扉を開ける」
open18:00 start18:30 ticket¥2000(ドリンク別)
出演:Stiglitz、the10、THE ANTLION、atsuko.、ザ・ワイセッツ

ワイセッツは今回5番目の21:10~21:55でございます。
LIVE HOUSE 「真昼の月 夜の太陽」
〒169-0072
東京都新宿区大久保2-6-16 平安ビル地下1階
TEL&FAX 03-6380-3260


是非とも遊びに来てくれや。