白骨の章、非常に有名な文ですね。お葬式の時などにお坊さんが良く引用されます。
「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」
本当にその通りですよね。私は個人的に蓮如上人というかたは浄土真宗においては親鸞上人よりも重要な方ではないかと思っております。蓮如上人がいなければ、今の浄土真宗は繁栄はなかったことでしょう。
さて、この白骨の章は非常にわかりやすい文章と思います。難解なところがあまりなく、だれにでも理解しやすいお話です。
とくに人の死、とりわけ身内の死に遭遇したときに、これを読むと本当にそうだなと共感できますね。だから多くの人に読まれ、語られているのでしょう。
その中で題にしましたが、「あわれというも、なかなかおろかなり」という箇所について私の解釈を書いてみます。
これを私の解釈で現代語にするとこうなります。
「(その人の死を振り返って)なつかしむということさえもおぼつかなく、むしろその人のおもかげさえ、消えていくようだ。」
このような意味と思います。
このような話を聞いたことがあります。
その人は息子さんを亡くされました。息子さんの葬式を済ませた後に、こういわれたそうです。
「あの子は本当にいたのだろうか。あの子の存在は幻だったのようにさえ思えてくる。」
死というのは単に肉体の消滅だけでなく、人の記憶にも影響を及ぼします。
人生を全うする形で迎える死というのは良いのですが、途中で断絶されるような死というのは、とても不条理で受け入れ難いものです。
ですから、その死がその人の生きた人生の意味に大きな影を落とします。
大事な人がなくなってしまった後に、その人の思い出を懐かしむことさえもできず、むしろ、その存在自体があやふやに思えてくるということは、なんとも空虚で、むなしいことでしょう。
これが、あわれというもなかなかおろかなり、の意味と私は思います。
さて、ここに救いはあるのでしょうか。
あまりなさそうです。死者はよみがえりません。不幸な死を人はどうすることもできません。
あきらめるしかないのです。
ただ仏教はこのあきらめを救いの一つと考えている節があります。
それが人生のはかなさをむしろ肯定する思想です。人生とははかなさであり、はかなさとは人生である。ゆえに悲しむことはないのだ。
人生とは本来そのようなものなのだという考えです。
そして、浄土真宗はここから一歩踏み込んでいます。それが南無阿弥陀仏です。
蓮如上人は最後に、人生は実はあまりにもはなかい。だから日々阿弥陀様を信じて生きましょう、と呼びかけてこの手紙を締めくくっています。
阿弥陀様を信じて南無阿弥陀仏と唱えればそれですべてが大丈夫なのだというこの絶対的な安心感を蓮如上人は体現されていたのだと思います。
そしてこれが浄土真宗の真髄なのだと思います。