最近、仏壇に手を合わせた?

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 私は、昭和の末から信心しているし、勿論、毎日
仏壇に手を合わせている。でも、結局、宗教とは
何だったのだろう?私は、夢など、全然実現しなかっ
たし、異性にも、まるで縁がなかったし、いくじなし、
よわむしの性格もそのままだった。私が信心してる
宗教法人は、「うちは、御利益宗教ではない!」と
いうことを力説するが、私は、「それでは、実際、信心
してますと、どのような効果があるのですか?」と
質問しても、法人は、もう答えなかった。確かに、
ヤレ、出世するだとか、大金が手に入るだとか、そういう
現世利益的なことを求めて、宗教入りする態度は、釈尊も
イエスも、孔子も老子も各世代の聖者聖賢とやらが、もっとも
厭まれた態度だという。これは、今更、子どもだって知ってる
ことだ。でも、信心を熱心にしてるからには、やはり功徳と
いうものがないと、やはり納得出来ないわな。それでも、私は、
私なりに、頭を働かせ、仏壇を拝むということを基本にして、
現世では、真・善・美に則った生き方を実践し、絶えず自己管理を
厳しく行ったライフ・スタイルを送ることだ、そうしたら、これは、
イエスの言葉だが、求めよ、さらば、与えられん、と信じていたのだ。
私は、今迄、そうやって生きて来たと自負している。
だが、結局、私は何もなかった。何もないまま晩年を迎えてしまった。
宗教とやらは、理屈ばかり説いている。偉そうな理屈は、もういいから
実感したいのだ。実感するには、どうしたらいいかというと、これまた、
仏壇に向かってお祈りの文句を唱えなさいというだけ。
信心なんて、してもしなくても同じなのかも知れない。
でも、私は、信心生活は、臨終迎えるまで続ける。したがって
仏壇も手を合わせ続ける。とにかく、すべては愛だ。仏教徒は、
「愛じゃなく、仏教では慈悲というんだよ!」というが、細かいことは
つべこべいうな。