裸でいることはあまりにも怖く

身を守るために服を身に着ける。

一枚、二枚と身に着ける。

いつしか、装飾品は増えていく。

それらの装飾品は、いずれかさぶたのように硬くなっていく。

取り外すには、血が求められる。


いつかは空を飛ぶために、強くなろうとしたのに、

自分を守ってくれるそのかさぶたは、

空を飛ぶには重過ぎる。


ならば、翼をより大きなものにさせようと、

天を仰ぎ、請い願う。


願えど願えど、聞き届かれず、

鎧を解くのだ。とさとされる。


ああ、強くなるために求めた数々の装飾品は

いったいなんのためだったのか。


今、飛び立つときに邪魔であるだけならば、

はじめから身につけなどしなければよかった。


そうして、ふと気づく。

自分を着飾ってくれた装飾品は

血を流すために必要だったのだ。


痛々しく滴り落ちる自らの血は、裸の僕を真っ赤に染める。


言葉を発するのには痛みが必要。


なにより、その言葉を自分のものにすることに、

時間と、そして多くの痛みが伴う。


よりスピードが求められている現在だからこそ、

いっそうそんなことにいちいち痛みを感じていることなどできない。


言葉は痛い。

それに反応していくことは、

神経が鋭くなりすぎて、肩に手をおかれただけで激痛を感じること。


そう、それはまさに公害病。

その世界を受け入れること。

その病と違うことは、痛みはいつか和らいで、待っている人が見つかるということ。


けれど、今の時代に、

どちらを選べと問われれば、

「聞かれるまでもないさ」と、痛みのない世界を受け入れる。

そうして増えていく無痛の世界の住人。


そう、これは公害病だったんだ。


昔、まだ日本に「愛してる」という言葉がなかった頃、


I love you.

この言葉はこんな日本語になった。


おまえのためなら死んでもいい。


なんて具体的で、そして激しいのか。


そして、僕は思う。


僕は何を愛そう。


対価は命なのだ。

人生はマラソンだ。

多くの人が何度となく比喩として用いるのを耳にして、

嫌になる。

けれど、批判するには代案が必要で、じゃあなに?

ってことで、考えた。


人生は短距離だ。

正確には、いくつもの短距離走。


レースがあって、インターバルがあって、レースがあって。
時として欠場して。


走るにしても全力。休むにしても全力。僕はそう思う。

マラソンで快走っといっても、

短距離でのダッシュのスピード感とは比べものにならない。
また、それはゴール間近になってのスパートだし。


山あり谷あり、そう例えられるけど、
ダッシュすることも、止まることもマラソンではない。
何かを目指すとき、それはごく短期間であったとしても、
みんなものすごい力走を見せるはずだし、
時として、走ることを放棄するはずだ。


マラソンであるなら、ゴールは一つだけど、
一つのレースで負けたとしても、
それですべてが決するんではなくて、

別のレースでリベンジしたい。


3回連続みごと優勝をさらって、しばらく欠場する。
なんてのも、ありだし。
レースに出る、出ないだって自分で選択したい。


だから、今日からはこう例える。
人生は短距離だ。

ずいぶんと、歩みを止めていて。

汚れがついていないか、痛みがないか。

ずっと、足元を見つめていた。


幸運なことに、どうやら自分の足は

まったくの健康体で、きれいであることが分かった。

そうすると、逆に歩けなくなる。


一歩、歩みを進めた途端、さっきまで立っていた場所は、

もう僕を助けない。

どんなにかたくかたく固めても、そこから進めなくなるのなら、

走り去ってしまおう。