20年前の1990年6月2日、東京都目黒区で娘は生まれた。
予定より3週間程早く、体重は2500g。
家内はその2日前の深夜に陣痛が始まって急遽入院したのだけど、時々陣痛が来るものの待てど暮らせど生まれる気配はなく、そのまま病院に留まることになった。
そして6月2日、僕はこの日急遽仕事(銀座サッポロライオン音楽ビアプラザの歌手業)を親友の田辺とおる氏に替わってもらい、出産に付き添うことが出来た。
家内は夕方から強い陣痛が始まり、これは生まれそうだとのことで分娩室脇の控え室に入ったのだけど、ここから分娩台に乗るまでの5時間余りが家内にとってつらく長い闘いとなった。
僕には想像も及ばぬ強い痛みから何度も失神しそうになっている彼女を見て、この時程何も出来ない男の無力さ感じたことはない。
午後11時頃に分娩台に乗ってから程なく、家内は無事出産した。2500gと未熟児寸前ながら、元気な産声をあげて生まれてきた。女の子!
長いお産を耐えた家内と、一緒に頑張っていたであろう生まれたばかりの娘、二人をとても誇らしく思って、とても感動した。
その晩は遅くまで一人祝杯を挙げたのでした。25歳の若輩者ながら、父親としていつも強くあろうと誓ったっけ。
まだ学生で結婚した僕は生活力などなく、東京の目黒区にある家内の実家の2階に住んでいたのだけど、家内のおばあちゃんも健在で同居、近所には叔母さんも住んでいたりと、娘にはとても賑やかな良い環境だったと思う。近所の保育園に通い、仲良しのお友達もいて楽しそうだった。
僕自身は貧乏ながらも今にして思えば家族に囲まれて暮らすそんな幸せな暮らしに埋没しそうだったのかも知れない。
外国に出るなら娘が学校に上がる前にしか機会がない、これを逃すと娘の学校にかこつけてきっと自分の道を自ら塞いでしまうだろう、と思い、すでにドイツに渡っていた田辺とおる氏を頼ってドイツの劇場のオーディションを受けに行ったのが1995年の1月。
ドイツ語能力ほとんどゼロの状態で運良くアイゼナッハの劇場に受かり、1995年の夏から家族でドイツへ。東西統一からまだ5年しか経っていなかった旧東独のアイゼナッハでは英語を話せる人はほとんどおらず、僕ら夫婦はほとんどドイツが出来ず、しかも唯一の日本人家族としての生活がスタートしたのでした。
娘も大変だったと思う。よく「子供は言葉を覚えるのが早いから」と言うけれど、ある程度のベースを掴むまでにはずいぶん時間が掛かったし、何より全く違う環境でしかも言葉も通じなかった、5歳の女の子のストレスは大変なものだったろう。
事実、お気に入りの人形で娘自身が名付けた「るるちゃん」をアイゼナッハの幼稚園でも肌身離さず抱いていたし、それが半年以上も続いた。
僕は彼女の母国語を日本語とすることに拘りずいぶん時間を割いてきたし、やっと普及し始めたインターネットのおかげで日本のじいじばあばと毎日メールのやり取りをすること(それはつい最近まで10年近く続いた)で毎日日本語の文章を考える機会に恵まれたおかげもあってか、娘の日本語能力は日本の同世代の人と遜色無いレベルになった。
17歳の時に彼女のたっての希望で、キール市の他のギムナジウムの姉妹校である、兵庫県立国際高校に一学期間留学した時も、邦楽部に入って琴を弾いたり、沢山の友達に囲まれてずいぶん楽しかったらしい。ありがたいことにこの時の友人とは今でも仲良くしていて、先月日本に行った時にも以前のホストファミリーの家に滞在させてもらい、友人と再会を喜びあい、彼女達が通う大学に聴講に行ったりして日本の友達との時間を満喫したようだ。
母国語の確立は彼女のドイツ語上達にも寄与したらしく、ドイツのギムナジウムに通う彼女のドイツ語成績はドイツ人と比較しても大変良い。
二カ国語を自由に操れると、言語能力が高くなるようで、ギムナジウムでの英語やフランス語、ラテン語の成績も優れている。特にラテン語はドイツ人も敬遠する科目であるのに、その論理的文法が彼女にとっても面白かったようで得意科目のひとつとなっていた。
今もってドイツ語に苦労している僕からは想像も出来ない話だ。
で、今日はAbitur(ギムナジウムでの大学入学資格試験)の最終日、口頭試問の日。
すでに筆記試験が3月に終わっており、合格確実となっているものの、最終的な成績が決まる大事な試験。
取りあえずご苦労様。でもこれからまだまだ道は長いんだよ。
大学ではドイツと日本の両方の大学に在学して建築を学びたいと言っているけど、うまくいくといいね。
20歳の誕生日祝いにiPadと司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を贈った。親みたいに脱藩してもらいたいという、思いもあって。
20歳、そしてAbitur合格、おめでとう。
予定より3週間程早く、体重は2500g。
家内はその2日前の深夜に陣痛が始まって急遽入院したのだけど、時々陣痛が来るものの待てど暮らせど生まれる気配はなく、そのまま病院に留まることになった。
そして6月2日、僕はこの日急遽仕事(銀座サッポロライオン音楽ビアプラザの歌手業)を親友の田辺とおる氏に替わってもらい、出産に付き添うことが出来た。
家内は夕方から強い陣痛が始まり、これは生まれそうだとのことで分娩室脇の控え室に入ったのだけど、ここから分娩台に乗るまでの5時間余りが家内にとってつらく長い闘いとなった。
僕には想像も及ばぬ強い痛みから何度も失神しそうになっている彼女を見て、この時程何も出来ない男の無力さ感じたことはない。
午後11時頃に分娩台に乗ってから程なく、家内は無事出産した。2500gと未熟児寸前ながら、元気な産声をあげて生まれてきた。女の子!
長いお産を耐えた家内と、一緒に頑張っていたであろう生まれたばかりの娘、二人をとても誇らしく思って、とても感動した。
その晩は遅くまで一人祝杯を挙げたのでした。25歳の若輩者ながら、父親としていつも強くあろうと誓ったっけ。
まだ学生で結婚した僕は生活力などなく、東京の目黒区にある家内の実家の2階に住んでいたのだけど、家内のおばあちゃんも健在で同居、近所には叔母さんも住んでいたりと、娘にはとても賑やかな良い環境だったと思う。近所の保育園に通い、仲良しのお友達もいて楽しそうだった。
僕自身は貧乏ながらも今にして思えば家族に囲まれて暮らすそんな幸せな暮らしに埋没しそうだったのかも知れない。
外国に出るなら娘が学校に上がる前にしか機会がない、これを逃すと娘の学校にかこつけてきっと自分の道を自ら塞いでしまうだろう、と思い、すでにドイツに渡っていた田辺とおる氏を頼ってドイツの劇場のオーディションを受けに行ったのが1995年の1月。
ドイツ語能力ほとんどゼロの状態で運良くアイゼナッハの劇場に受かり、1995年の夏から家族でドイツへ。東西統一からまだ5年しか経っていなかった旧東独のアイゼナッハでは英語を話せる人はほとんどおらず、僕ら夫婦はほとんどドイツが出来ず、しかも唯一の日本人家族としての生活がスタートしたのでした。
娘も大変だったと思う。よく「子供は言葉を覚えるのが早いから」と言うけれど、ある程度のベースを掴むまでにはずいぶん時間が掛かったし、何より全く違う環境でしかも言葉も通じなかった、5歳の女の子のストレスは大変なものだったろう。
事実、お気に入りの人形で娘自身が名付けた「るるちゃん」をアイゼナッハの幼稚園でも肌身離さず抱いていたし、それが半年以上も続いた。
僕は彼女の母国語を日本語とすることに拘りずいぶん時間を割いてきたし、やっと普及し始めたインターネットのおかげで日本のじいじばあばと毎日メールのやり取りをすること(それはつい最近まで10年近く続いた)で毎日日本語の文章を考える機会に恵まれたおかげもあってか、娘の日本語能力は日本の同世代の人と遜色無いレベルになった。
17歳の時に彼女のたっての希望で、キール市の他のギムナジウムの姉妹校である、兵庫県立国際高校に一学期間留学した時も、邦楽部に入って琴を弾いたり、沢山の友達に囲まれてずいぶん楽しかったらしい。ありがたいことにこの時の友人とは今でも仲良くしていて、先月日本に行った時にも以前のホストファミリーの家に滞在させてもらい、友人と再会を喜びあい、彼女達が通う大学に聴講に行ったりして日本の友達との時間を満喫したようだ。
母国語の確立は彼女のドイツ語上達にも寄与したらしく、ドイツのギムナジウムに通う彼女のドイツ語成績はドイツ人と比較しても大変良い。
二カ国語を自由に操れると、言語能力が高くなるようで、ギムナジウムでの英語やフランス語、ラテン語の成績も優れている。特にラテン語はドイツ人も敬遠する科目であるのに、その論理的文法が彼女にとっても面白かったようで得意科目のひとつとなっていた。
今もってドイツ語に苦労している僕からは想像も出来ない話だ。
で、今日はAbitur(ギムナジウムでの大学入学資格試験)の最終日、口頭試問の日。
すでに筆記試験が3月に終わっており、合格確実となっているものの、最終的な成績が決まる大事な試験。
取りあえずご苦労様。でもこれからまだまだ道は長いんだよ。
大学ではドイツと日本の両方の大学に在学して建築を学びたいと言っているけど、うまくいくといいね。
20歳の誕生日祝いにiPadと司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を贈った。親みたいに脱藩してもらいたいという、思いもあって。
20歳、そしてAbitur合格、おめでとう。