第一章:ふつう

中年の男がいた。名は佐野透。
年齢は五十に近く、背は低めで、髪は薄くなりかけ、スーツは量販店の吊るし。
電車では一番端の車両に乗る。座れなくても文句は言わない。
改札を通るとき、誰にもぶつからない。不思議と、人の流れが自然に彼を避けていく。
「今日も遅れずに済んだな」
ぽつりとつぶやいて、彼はオフィス街へと歩いていった。

誰の記憶にも残らない男だった。


第二章:隠された能力

佐野は、昔から妙なことがあった。

道を歩いていても、知り合いに声をかけられることはまずなかった。
学生時代の同級生にすれ違っても、まるで初対面のように無視される。
「俺って影が薄いのかな」
そんなふうに思ったのは、もう何十年も前のことだ。

だが、ただの「影が薄い」ではなかった。
彼の存在は、人の注意から滑り落ちる。目には映っているはずなのに、意識には引っかからない。

あるとき、警備の厳しいビルに間違って入ってしまったが、誰にも止められなかった。
警備員はいた。金属探知機も鳴った。だが、彼は誰にも声をかけられず、静かに通り抜けた。

「……おかしいな」
佐野は思ったが、それ以上は深く考えなかった。
中年にもなれば、世の中には理屈では割り切れないこともあるのだ、と彼は結論づけていた。


第三章:目立たない

佐野は地味な部署に所属していた。
報告書を黙々とまとめ、数字を間違えず、誰かの尻拭いも文句を言わずにこなす。
だが、昇進の話が来たことは一度もない。

「おお、いたのか佐野くん」
「いたよ、最初から」
「ははは、気配ないなあ君は。まるで忍者だ」

同僚たちは笑ったが、その笑いの中に彼への好意や興味はなかった。
佐野はコーヒーをすすりながら、窓の外を見た。
青い空に、飛行機雲が一本、まっすぐに伸びていた。

最終章:彼の能力は実は彼もしらない(改稿)

ある日、国の研究機関が匿名の情報を受け取った。

「この人物には、観察を回避する能力がある。人の意識から自動的に外れる力だ。
だがそれは副作用にすぎない。本質は、もっと根の深いところにある」

研究者たちは興味を持ち、調査を始めた。
佐野透――名前は社内にあり、履歴書も提出されている。
しかし、面接官の誰一人として、その日の記憶がなかった。

監視カメラを巻き戻しても、映っているような、いないような。
机の書類は毎日きちんと整理されていた。
だが誰が整理したのか、誰も思い出せない。

やがて、ある若手研究員が仮説を立てた。

「もしかすると……この男は、他人の“間違い”を無意識に修正しているんじゃないでしょうか。
書類の数字、忘れられた発注、タイミングのズレ、人間関係のひずみ。
それらを自然な形で、無意識に、自分でも気づかないうちに……整えている」

「つまり、彼がそこに“いる”ことで、世界がちょうどよく噛み合っている……?」

「ええ。彼は、自分がそうしていることに気づいていない。
むしろ、気づいてしまった瞬間に、その能力は壊れてしまうでしょう」

結局、その報告書は誰にも読まれなかった。
提出したはずの研究員は、なぜか退職していた。
ファイルは、ある日ふと、消えていた。

佐野透は今日もいつも通り会社に行き、定時に帰った。
同僚に挨拶されることはない。名指しされることもない。
けれど、誰かが助かったことに、彼は気づかない。

彼は今も、世界の見えない歯車として回っている。
誰にも気づかれず、ただそこに“いる”だけで、すべてがうまく回るように。

そして、彼自身も知らないのだ。
自分が持つその能力の名を――