この記事は、穂吉のブログの「2013-01-17 16:30:00」にUPした『日本の神話247. ~第四部 大和朝廷~  =第三三章 推古(すいこ)天皇=』という記事を再編成してUPしています。



最初のお話し 『日本の神話01』     前回のお話し 『日本の神話246』




古事記」での、最後の天皇の章でございます。



天国押波流岐広庭命(あまくにおしはるきひろにはのみこと)

欽明天皇(きんめいてんのう))
様の皇女様で、

先の沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)

敏達天皇(びたつてんのう))
様の皇后であり、

さらに用明天皇(ようめいてんのう)と、

崇峻天皇(すしゅんてんのう)の妹君でもある、

豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめのみこと)様は、

小治田宮(をはりだのみや)にて

天の下を治められること37年で

後に、推古天皇(すいこてんのう)と呼ばれました。



その御陵は、大野岡上(おおののおかのうえ)にございましたが、

後に、科長大陵(しながのおおみささぎ)へお移しいたしました。



- 追 記 -

とうとう「古事記」での『日本の神話』は、これにて終了です。 いつも読んでくださって、本当にありがとうございました。
日本書紀」では、この後、『第41代天皇 持統天皇(じとうてんのう)(女帝)』 まで続きます。

今回の『推古天皇(33代)』を含め、全ての天皇の御名は、ウィキペディアの「天皇の一覧」に、『初代の神武天皇(じんむ)』より、『第125代・今上天皇』の『継宮昭仁(つぐのみやあきひと)』様まで掲載されております。お時間を作られて、是非一度ご覧になってみてくださいね。

さて、この『推古天皇』の御世の前後には、どんな事が起きていたか?そこを簡単に書かせていただきます。

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『第29代天皇・欽明天皇(父君)』からの数代の天皇の御世は、古来より日本神道の神々をお祀りする総代である、『物部(もののべ)』一族と、大陸からの『仏教』を日本に広めたいと考えた『蘇我(そが)』一族との、権力争いの時代でした。

疫病が流行れば、『仏教が入ってきて、日本の神々が怒っている!』と言い、大陸からの仏像を打ち壊したりしました。
そして、『欽明天皇』の崩御後には、また疫病が流行るのですが、病が流行する少し前から、また少しずつ仏像や仏殿が建てられ始めていたのです。
するとまた、『日本の神々がお怒りになられ、仏教を祟っているのだ』と、仏像を壊したり、僧侶を捕えたりしたのでした。
すると今度は、「仏像を壊した者たち」と、その命令を下した『敏達天皇』が疫病に罹り、僅かな日にちで亡くなってしまったのです。

日本神道を祀る 総代としての地位を永遠に持続させたい、『物部一族』の家長である『物部守屋(もののべのもりや)』と、
新たな宗教、新たな教養を大和に取り入れたい『蘇我一族』の家長である『蘇我馬子(そがのうまこ)』の対立は、『敏達天皇』が、日嗣を決める前にご崩御なさった事により、更にヒートアップしていったのでした。

蘇我』の一族の血で皇室を固めたい、『蘇我馬子』に対し、『蘇我』の血を一滴たりとも皇室に入れたくない、『物部守屋』という争いです。
さらにここに皇位継承に執着している皇子、『穴穂部王(あなほべのおおきみ)』様も加わるのです。

穴穂部王』様は、初めは叔父である『蘇我馬子』に近づき、天皇に推薦してもらおうとします。
しかし相手にされなかったので、今度は、『物部守屋』に近づきます。
そして、『穴穂部王』様と『物部守屋』は、互いに手を組み、天皇亡き今、次の天皇を決めることが出来るのは、『敏達天皇』の皇后しかいないと、皇后を誘拐したのです。
しかし皇后(後の『推古天皇』)は、『敏達天皇』の臣下の『三輪逆(みわのさからう)』により救い出されたのです。
しかし残念ながら、この時『三輪逆』は、捕えられ首を刎ねられたのでした。

皇后(後の『推古天皇』)は、『物部守屋』と、皇后の異母姉弟の『穴穂部王』の行いを許せませんでした。

そして次の天皇には、同母兄君の『橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)(『用明天皇』)』様とお決めになられたのです。
しかし体の弱い、『用明天皇』のご即位は、たった2年だけでした。

その後は、『長谷部若雀命(はつせべのわかさざぎのみこと)(『崇峻天皇』)』様が即位されたのですが、やはりわずか4年でご崩御。

そこで『馬子』は、姪で、『敏達天皇』の皇后の『豊御気炊屋比売(とよみけかしぎやひめのみこと)(『推古天皇』)』様を天皇に即位させ、その皇子の『聖徳太子』と共に、国を動かして行ったのです。

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しかし何故、『蘇我馬子』と、『敏達天皇』の皇后(のちの『推古天皇』)は、『聖徳太子』を天皇に即位させなかったのか?
政治を行うには、研究したり、皆の意見を聞き分けたりと、利発な者でなければ務まらない。
そう云う事を考えた時、ご聡明な『厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子)』様は、天皇としていらっしゃるよりも、『馬子』と共に国のあるべき姿を考えながら、政治を行うべきであると、『馬子』も皇后(のちの『推古天皇』)もお考えになられたのであろうと、穂吉は推測します。

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そして長々と『日本の神話』に、お付き合いいただき、ありがとうございました。





ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

おしまい。
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