必要なものと不要なもの
必要と不要って、多くの場合、好き嫌いがその決定を左右する。
(仕事においては、なかなかそういうわけにはいかなかったりするけど…)
僕はわらび餅が好き。
というか、基本的にきなこがすき。
きのこ類もすきだけど、きなこの方が1億倍すき。
ただ、きなこをまぶしただけのシンプルなわらび餅に、最近なかなか出会えない。
これがまた、実にさびしい。。
黒蜜も、
抹茶テイストも、
僕にとっては不要なもの。
ただわらび餅に必要なのは、たっぷりかかったきなこだけ。
でも視点を変えてみるとこの言い分は通らないことに気づく。
「餅と黒蜜ときなこのハーモニーが絶妙だからわらび餅はおいしいんだ」
そう思うひともいるわな。
なにより実際に、ストレートにきなこだけのわらび餅がマイノリティになっているわけやし。
むしろその食べ方の方が王道なのかな。
どうでもいいけど、きなこだけがたっぷりかかった、シンプルなわらび餅が食べたい![]()
学習能力
学生時代に赤点連発だったひとが社会人になってから仕事で活躍することって、意外と多い気がする。
逆に、成績優秀者が社会に出て以来、なかなか仕事人としての芽がでず…なんてこともあるのかな。
新卒一年目のときから気付いていた。
学歴って意外と意味ないかもってこと。
もちろん、特定分野においては学歴がなければそもそもお話にならない世界もある。
採用募集要項に「4年制大学卒以上」を条件とする企業も多い。
自分も大学を出ていなかったら現職も、前職も、そもそも入社できていなかっただろうとやはり思う。
ただ、社会人になってからは、アカデミックなものではなく、行動科学的な学習能力がものをいうものなのではないかと。
机上の空論は無用。
実戦でどこまで使える頭か。
自分は今、そんな戦場にいる気がする。
たとえば、多くの仕事で重要視される、「コミュニケーションスキル」
これはどうやったら養えるか。
教科書や書籍、人から聞いた話・・・
いろいろ知ったところで、使えなくては意味がない。
つまり、研究能力って、仕事においては学習能力とは言えないということかな。
じゃあ仕事において意義のある学習能力ってなんや?
たぶん、
ひとの得手を盗み、自分用にカスタマイズし、自分の得手に転換できる力
なぜそうなるのか、根拠をもって結論を導き出す地頭力
さらに簡単な例でいえば、
同じミスを二度しない能力、あるいは、その意識をもって注意深く仕事を進められるかどうか
こんな感じやろうか。
とりあえず、どんな些細なことでも頭をフル回転させて、本質的に対処することがだいじ。
昔取った杵柄
最近、あたらしいことにチャレンジすることが多い。
いろいろやっていくうちに、その方法論は大きく以下2つの前提のもとに成り立つことに気づく。
1)全く新しいスキルや知識、経験を要する自分にとって未知の領域
2)これまでのスキルや知識、経験が何かしら活かせそうな、これまで通ってきた道の延長にある領域
1)においては、まず知識ありき、自分がいかに知らないかを知ることから始めるべきものなのだと感じる。
ものごとを知らないことほど怖いことはない。
既存のルール、業界のしがらみ、法律上のきまり、過去の成功事例・失敗事例…
そして、2)について。
この「活かせそう」ってどうしたら「活かせる」にできるのかな。
その基礎⇔応用の関係について最近考えることが多い。
社会人として何年か働いていると、少なからず何かしらの経験、成功体験、自信、自負みたいなものはだれにでもあると思う。
それをどう別の分野に転換するか。
スキル領域は同じにあっても分野が違えば勝手が違ってくる。
でもとにかくひとつ分かっていることは、基本は同じ方法だということ。
これまでの知識や経験を今、そしてこれからに活かすには「テクニック」がいるということ。
知っていても使えなければ意味がない。
じゃあ使えるようになるためにはどうしたらいいか。
まず、使ってみるっていうことだよな。
結局トライ&エラーの繰り返しで微調整し、気づいたら転換できていくものなのかな。
軌道修正
10/1より、以前ブログに書いた「軌道修正」をしました。
本当にばたばた続きで色々あり、なかなかブログをアップできなかった日々。(ま、言い訳ですね…
)
お世話になった人たちから、お世話になったという言葉をもらうこと。
尊敬する人から、尊敬していると言われること。
もっと一緒に働きたい、と本心から言ってくれた上司、同僚、後輩・・・
あなたがいなくなると困る、と言ってくれたクライアント、メディア、パートナー会社…
まだまだやり残すことはあったかもしれない。
でも、自分の決断に1mmの迷いもない。
間違いはない、との確信しかない。
全ての出会いに感謝してもしきれない。
今の自分があるのは昨日の自分があったから。
一昨日の自分があったから。
そう振り返ればすべてが因果関係で結ばれる。
この先もそうだと思う。
無駄な出会いなどなかった。
別れるから出会いが無駄になるなんてこともないはずだ。
いつかまた、仕事なのか、プライベートなのか、これまで出会ったひととはつながっていくのだろうとしか今は思えない。
代理店からメーカーへ。
無形財から有形財へ。
BtoBからBtoCへ。
これからも僕は、自分の目指すコミュニケーションを深化していきます。
36,500コvs1,095コのインパクト
感受性は豊かな方が成長が早いと思う。
笑ったり喜んだり怒ったり悲しんだり・・・ちょっとしたことにも気づきや学びを見出そうとできるタイプかそうでないか。
ホント人の考え方や感じ方って十人十色、百人百色。
そんな考え方もあるんだ。
そう感じる人もいるんだ。
他者視点から学ぶことってホント大きい。
ただ、「感じ方」に関して、どうしても主体性を欠く(と思われる)後輩と話をしているときに疑問を感じたことがある。
スタンスの違いなのかな。
「それ、改善のチャンスやん」
「なんでそれ、そのまま見過ごしちゃうの?」
「もっと頭使えば気づくでしょ」
「この議題に対するあなたの意見は?は?特になし?」
何かを「感じた」ことが100コある一日と、3コしかない一日とではその濃さが激しく違うと思う。
そして、同じことをしてても100コ感じれる人と、3コしか感じられない人っていると思う。
人生は今日の連続なので、極端な話、年間100コ×365日=36,500コのインパクトを心にもった人と、3コ×365日=1,095コの人。
その差って歴然。
成長の機会損失が日々起きている。
そんな風に考えると、常にビシバシ「感じられる人」でありたい。そう僕は思う。
与える側と受ける側。
社会人である以上、受けるだけではだめ。
与えることもしないとだめ。
与える人もそもそも多くを受けている。
多くを受けないとそもそも与えられないということ。
もっと心が動くことを感じながら突き進もう。
白洲次郎
読売新聞の広告で開催を知って以来ずっと楽しみにしていた「時代を駆け抜けた二人 白洲次郎と白洲正子展」
に行ってきた。
正子夫人の作品もすごかったが、やはり僕のお目当ては白洲次郎。
これぞダンディズム。
かっこよすぎる。
風の男 白洲次郎 (新潮文庫)/青柳 恵介
プリンシプルのない日本 (新潮文庫)/白洲 次郎
白洲次郎のダンディズム―なぜ男らしくありえたのか (ぶんか社文庫 (は-4-1))/馬場 啓一
その足で書店に駆け込み3冊購入、一気に読破。(催事場にもグッズコーナーがあった。でもなんとなく本人には関係しない人がしている金儲けの餌食になるような気がして・・・素通りした。)
プリンシプルを貫くこと。
行動と思考の中心は原理原則にあるべきだ。
上司が中心。
社長が中心。
恋人が中心。
親が中心。
過去の栄光が中心。
お金が中心。
ペットが中心。
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ひとは皆、無意識のうちに何かに自己の生活を支配され、その条件づけにしばられてしまうことが多い。
自分の場合はどうだろう。
自己中心?
ぎりぎり原則中心を目指せている?![]()
信念を持ち、貫くことが大事だな。
はしご掛け違いの罠
がんばってがんばって、とにかくしぬ気でがんばって、ようやくやりきったときに気づく。
「あれ?こうじゃない。自分が目指していたのはコレじゃない!」
これぞまさに、はしご掛け違いの罠。
自分は今、現地点と行きたい到達地点との間にある道筋を通ろうとしているのか。
私事を書かせていただきます。
僕は結構本気で明日あさってしあさってを生きようと思っているから、どうしてもこの罠にだけははまりたくない。
そういった心情もあり、時に時間をとって自分自身の現実と理想のについて、振り返り、受け入れ、租借し、改めて向かうべき方向の確認をする。
そして最近、ひとつの決断をした。
「軌道修正しよう」
何度も本気で考えた。
他のひとの意見もきいた。
おとずれるであろうリスクも考えられる限り考え抜いた。
そして、自分自身のミッションステートメントに照らし合わせた。
「何も間違いないはないはずだ」
おとこなら、たとえ失敗してもいくでしょ。
チャレンジするでしょ。
エキサイトするでしょ。
コミュニケーションで価値創造したいという一貫した想いだけは変わらない。
僕の方法論。
僕の価値観。
僕の仕事観。
泳ぐことがヘタな魚なんておらん。
自分らしい生き方ができんひともおらん。
僕は僕の生き方をする。


