『NHI』 ~捻じ曲がってて変質的にいやらしい~

『NHI』 ~捻じ曲がってて変質的にいやらしい~

ターミネーターをTとする
CHYの中の人は「守ってあげたい」を歌っていることから
CHY=B72によってB72×Tとなり
=T-72Bとなる
またT-72B戦車は女性を連想させる「膨らみ」がありCHY=T-72Bは適さない
つまりGNH君は聖母、はっきりわかんだね


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どうも鉄氷です、最近はにわかに釣りにはまっております

さて、タイトルに書いてある通り今回はこちらの記事の旧武庫川線に行ってきました

旧武庫川線のことはさっきの記事に書いてあります、今回は実際に追ってみました

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写真1

写真が横になっていて申し訳ないんですが踏切から阪神武庫川駅(北側より撮影)です

写真で自分が立っている位置が阪神本線へと合流しているレールで左側は整備されておらず使われていません


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写真2

またまた横になっています、これからもいくつか横になっている画像があります...申し訳ないです

先ほど撮影位置の踏切から今度は北側へ(旧国道・国道2号線・JR東海道本線方面)撮影したんものです

この先は旧国道によって線路が塞がれ、以降マンションや住宅が並んでいますがどことなく家の並び方が廃線跡を思わせます

(実は今回の廃線巡り、とある方のブログを参照にさせてもらっているんですが要所要所しか撮影していません。参考にさせてもらった方のブログでは橋桁などもっと細かな部分まで撮影し考察していました...すごい!)


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写真3

旧国道や2号線を越えてかなり飛んできました。東海道本線甲子園口駅付近です

この上をJRの列車達が走っている訳ですがこの画像の部分辺りが旧武庫川線と東海道本線が交わっていた部分だと思って間違いなさそうです

恐らくこの上を走っていた訳ですね


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写真4

これも横になっています...

写真3の撮影位置をまっすぐ進むとこのようなトンネルが交差点に現れます

このトンネル、見てわかるように手前の天井が四角で奥の天井が丸い形状になっているのですが、物分りのいい人はわかったかもしれません

(自分も最初参考にさせてもらった記事を見た時なるほど!と思ってしまいました)

奥の天井が丸い部分がもともとからあった東海道本線の部分、手前の四角の天井が後に旧武庫川線を作るときに継ぎ足された部分なのです



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航空写真1

写真3と写真4の撮影位置のgoogle mapの上空写真です

見難くて申し訳ないのですが画像の上の部分、右側が写真3の撮影位置で左側が写真4の撮影位置、さらにその上(北側)が東海道本線になっていますがその右の方、画像では右上の白いマンション

廃線になり、空き地になった部分にマンションが建っています。マンションの形状からしてここにかつて線路があったことは確実だと思われます

さて、写真4を撮影した交差点を線路沿いに更に進みJR甲子園口を過ぎてもうしばらくするとなかなかマニアをニヤっとさせるものに出会えます

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写真5
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写真6

甲子園口SL公園です。

線路沿いの細長い公園で本物のSLが置いてあるわけではありませんが、個人的には本物のSLより気になるものです

この塔のようなもの、これは汽車に水を補給する給水塔です

補修されモニュメントとして残っているようです、西宮市の住民ではないですが市に感謝です



さて、以上フラっと立ち寄ってきた旧武庫川線跡でした

やっぱり実際に行って「ここを通っていたのかな」「当時はここにこれがあった」など思いを寄せるのも楽しいものです

この旧武庫川線も戦争の産物です、こうやって考えさせられる物が自分の住んでいる地域にあることはとてもうれしいことですね

次回、暇があれば鳴尾浜にでも行ってみたいと思います。ブログを更新するかは別として...




余談ですが帰りにこのSL公園から帰り道に近いこともあって阪急西宮ガーデンズに行って来ました

あれ?最近行ったような...

ガーデンズの近くにある高松ひなた緑地にはあのかつて神戸線と今津線で平面交差をしていた頃のレールが埋め込まれているんです!最高ですね!

普通に訪れるにもいいところなのでまた近くを通りかかった際には寄ってみたいと思います

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おまけ:球場前踏切
やっとテスト期間も終わって続く三連休で慢心慢心

勉強の事なんて忘れてゲームしたり食べに行ったりネットしたりと自分なりに三連休を満喫しているつもりであります

さてタイトルの廃線巡り。自分は実際巡ったことはないんですが幾度か目にしたことはあります

自分の事を知っている人近所の人なら「えっ?廃線なんてこの近くにあったの?」ってなると思います

あるんです!案外近くに

それが阪神武庫川線、!すでのな

何故突然廃線愛してるなんて言い出したかと言うと

学生御用達!?wikipediaサーフィン→西宮北口のページを見つける→今津線高架化してから行ってねーな→高松ひなた緑地ってんだ?→よし個人のサイトで調べてみよう→なんだこの人廃線マニアかよ




廃線マニア!?



そうです。思い出しました私が廃線マニアです。

自分がまだ小学生低学年だったころ親の知り合いが阪神武庫川駅の近くに住んでいたものでよく武庫川へ遊びに行ったりもしていました

その親の知り合いの家から武庫川へ行く途中に阪神電車の踏切があるのですが当時の自分はその踏切に疑問を持ちました

南側は武庫川駅と武庫川駅~洲先駅への線路、阪神本線への連絡線が続いているのに北側は草に埋もれ途切れていたからです
(手持ちに写真がなく、また他所から持ってくるのも気が引けるので貼っていません。しかし自分の中では有名なので検索をかければ出てくると思います)

その時父親が「昔はこの先も電車が走っていたんだよ」と教えてくれました

しかし途切れた線路の先には旧国道が、その道路をまたぐとマンションと駐車場があるのです

マンションが建っている場所に電車が走ってた?という疑問が廃線オタクになるきっかけにもなったのです

さてこの阪神旧武庫川線、少し調べてみました
(ただ興味を持って詳しく知りたい方は実際に巡ってみた方のサイトを見てもらった方が解りやすいと思います)

第二次大戦最中の1943年、洲先駅(現在の武庫川団地前駅付近にあたる)近くには軍需工場の川西航空機(現:新明和工業)があり、戦況の雲行きが怪しくなるにつれ軍用機を大量生産するための従業員や資材を運搬するため軍から要請で社員や学生を動員し突貫工事を進め驚くべき速さで武庫川駅~洲先駅を開通させます
(この突貫工事がまた本当に突貫工事で武庫川の松並木を切り倒しお墓のど真ん中にレールを敷いてしまうという有様)

翌年の1944年には武庫大橋~武庫川駅が開業し同年11月、国鉄(現:JR)の西ノ宮駅(現:西宮駅)~洲先駅間で川西航空機の為の貨物線が開業した

まとめると北:西ノ宮-武庫大橋-武庫川-洲先:南という感じで阪神電気鉄道が武庫大橋~洲先間、国鉄の貨物線が西ノ宮~洲先間となる

そしてこの旧武庫川線の特徴はやはり三線軌道でしょう

阪神電気鉄道(私鉄)と国鉄では線路の幅が違い、阪神電気鉄道の方が広く国鉄の方が幅が狭いのです

このままでは国鉄の貨車は旧武庫川線には入線できません。そこで三本のレールをひき阪神電気鉄道と国鉄の列車が同じ路線を走れるようになったのです
(この時阪神電気鉄道は名前の通り電気で動く電車だったが国鉄の貨車はSLであったためと電車と汽車が同時に走っているんです。カオス)

(また西ノ宮~武庫大橋間が国鉄の貨車のみなので狭軌、武庫大橋~洲先までが阪神電気鉄道の旅客営業をしていたので三線軌道となっている)

かくして川西航空機で出来上がった戦闘機がガシガシ活躍し見事連合国に勝利!
するはずがなく川西航空機とともに空襲を受け被災、目的が果たせないまま終戦を迎えました

終戦後、進駐軍の要請で物資のみ輸送を繰り返しこの後に休止するものの終戦後休止されていた旅客営業を現在の武庫川駅~洲先駅間で再開

また武庫川団地の開発とともに洲先駅から武庫川団地前駅まで延伸し現在に至りました

ただ採石場のためとかダム建設のために臨時でーという理由ではないなかなか面白い歴史を持つ旧武庫川線

現在は先ほど書いた通りほとんど用地が民間に売られ戦時中の旧武庫川線を想像させられるものは僅かですが見られないことはありません

実際に巡ったわけではないのであまり詳しいことは言えませんが他の廃線巡りの方を手本に巡ることもできるでしょう

いつか自分もこの足で旧武庫川線を巡ってみたいものです




余談
川西航空機は二式飛行艇、紫電改を製造したメーカーであり後の新明和工業ではノウハウを受け継ぎUS-1、辛坊治郎と岩本光弘を救助したUS-2等を製造している
WARNING
この記事はわかりやすいように大分噛み砕いて説明しています、誤解してしまった場合鉄氷は責任をとるとかとらないとかそういう怖いことはお断りです

時は遡って1940年前半、世界は第二次世界大戦の真っ最中
各国の軍は一撃で相手を仕留めれるようストッピングパワーのある大型の弾丸を主力としていた
しかし栄えあるゲルマン民族はそんなの関係ねぇとKar98kの7.92×57弾を短くした7.92×33弾を開発、世界初のアサルトライフルとなるStG44に使用される
しかし技術の国ドイツでさえ物資の量で上回ったアメリカ、人材で上回るソ連に挟まれ敗北、終戦を迎える
終戦後アメリカはM1ガーランドの.30-06スプリングフィールド弾をちょっとだけ小さくした7.62×51弾を(権力的な意味で)NATO標準弾薬にする
しかしお隣大英帝国が猛反発
小さくしたとはいえ7.62×51弾は連射時の反動が大きく連射に向かないと主張、独自に短小弾と小銃を開発する(あの有名なL85の前進)
しかし上手くいかなかったようでフルオート機構を取り払った7.62×51弾を使用するFAL L1A1を採用、ツンデレか?
一方ソ連はというとドイツ軍との死闘の末、教訓から短小弾を使用する小銃の開発を行い7.62×54R弾を短縮した7.62×39弾を開発SKSや世界一人を殺した銃ともいわれるAK-47に使用する
時は巡って1960年代ベトナムの戦場でアメリカの7.62×51弾を使用するM14とソ連の短小弾の7.62×39弾を使用するAK-47が衝突した
大型の弾薬を使用するM14は射程の長さを生かせる場面が少なく(ジャングルでは見通しが悪かった)所持できる数も限られていた
しかしソ連のAK-47は短小弾のため至近距離で弾をばら撒くのに適しており曲銃床と相まって反動の強かったM14は次第に使われなくなっていった(木製ストックという点でも腐ったり変形しやすかった)
そこでアメリカはソ連に対抗すべく短小弾の5.56×45弾を使用するM16を導入するが、された当時はメンテナンス不要などのデマが広がりジャムなどが起きやすかった
(5.56mmの誕生で短小弾を使用する銃をアサルトライフル、7.62mmなどを使用する銃をバトルライフルと呼ぶようになった)
その点でも泥や砂に強いタフなAKが優位に立ったのだった
結局M16はA2などに改善されクリーニングを徹底出せたり火薬を新しくしたもののアメリカ軍は撤退、アメリカ軍は勝利することはなく戦争は終了した
正式小銃の座を速攻でM16に譲った不遇なM14、しかし湾岸戦争やイラク戦争では広い砂漠での戦闘で5.56×45弾では射程が短く相手に致命傷を与えられなかった
そこで近代改造を施されたM14が大活躍、製造から30年後にようやく自分の戦場を見つけたのでした