整えることは、特別なことじゃない

 

 

よく噛むこと。
よく眠ること。
湯舟に浸かること。
軽く身体を動かすこと。
天然塩を摂ること。
水を飲むこと。
 
 
 
こういう“基本”が、
結局いちばん大事なのだと思います。
 
 
 
できているつもりでも、
崩すと基本の大切さを思い出します。
 
 
 
何かを足す前に、
まずは土台を整えること。
 
 
 
その土台が整っていないままでは、
どんなに身体に良いとされるものを取り入れても、
うまく巡らないことがあります。
 
 
 
人にも猫さんにも、
もともと自分で整おうとする力が備わっています。
 
 
 
その力が働きやすい状態をつくること。
それが、日々できる養生なのだと思います。
 
 
 
よく噛むことも、
よく眠ることも、
湯舟に浸かることも、
全部、身体を休ませ、巡らせ、整えることにつながっている。
 
 
 
私は、
その土台を支えるものとして、
天然塩と水を大切にしています。
 
 
 
もちろん、
病院や薬を否定したいわけではありません。
 
 
 
必要なときは頼ればいい。
でもその前に、
自分でできることも、ある。
 
 
 
連休で少し食べすぎたり、
飲みすぎたりしている方もいるかもしれません。
 
 
 
そんなときこそ、
“何を足すか”ではなく、
“基本に戻る”ことを
思い出してみてもいいのかもしれませんね。
 
 

 

 

受け容れることは、簡単じゃない

 

 

 


猫と生きる中で知ること

 

 

 

😺

苦しみは、
愛しているから
生まれるものでもある

 


 

 

最近、
一切皆苦 いっさいかいく」という言葉を知りました。

 

 

 

生きている以上、
苦しみは避けられない——
そんな意味を持つそうです。

 

 


なるほどと思う一方で、
「そう思えたら苦労しない」
という声も、きっとあるだろうと思いました。

 

私も、そう思います。

 

 


大切な存在がいるほど、
心配になるし、
失うことは怖いし、
思い通りにならない現実は苦しい。

 

 

 

猫さんと生きていると、
そのことを何度も思い知らされます。

 

 


でも、
その苦しみは
“愛しているからこそ”
生まれるものでもあるのだと思うのです。

 

 


だからといって、
簡単に受け容れられるわけではありません。

 

 

 

苦しいときほど、
理由を探したくなるし、
何かのせいにしたくなる。

 

 

 

でも、
外側に答えを探し続けている間は、
本当の意味で
受け容れるところには辿り着けないのかもしれません。

 

 


日々を大切に生きること。
目の前の小さな幸せを感じること。
猫さんと過ごす“今”を、ちゃんと生きること。

 

 

 

そういう積み重ねの先に、
少しずつ、
受け容れる力は育っていくのかもしれません。

 
 

 

苦しみがなくなることは、
きっとないのだと思います。

 

 

 

 

でもその苦しみは、
大切に生きている証でもあるのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

話したいと思ったときに 

 

 

猫さんのことを話しているうちに、 

氣づけば、自分のことを話していた。 

 

そんな時間になることがあります。   

 

 

 

猫さんのことをきっかけに見えてくるものは、 

案外、その人自身の心や身体のことだったりします。

 

逆に、 ご自身のことを話していたはずなのに、 

猫さんとの関わり方につながっていくこともあります。   

 

 

 

だから私は、 

最初から「これはカウンセリング」 「これはアニマルコミュニケーション」と 分けすぎないようにしています。   

 

 

 

お話を伺いながら、 その方と猫さんにとって 今、必要だと感じたことを そのときの流れの中で行っています。   

 

 

 

もし、 

「少し話してみたいな」 「聞いてみたいことがあるな」 

そんなふうに思われたら、 どうぞお声かけくださいね。   

 

 

 

必要なタイミングで、 必要な方に届きますように🌿 

 

 

 

セッション内容や料金など、 詳細については

こちらにまとめています🌿 

 

 

 

 

 

「長女だからしっかり者」って、本当にそう?

 

 

 

「長女だからしっかりしてるよね」
「次女は要領がいいよね」

 

 

そんな言葉を聞くたびに、
私は少し違和感を覚えます。

 

 

本当に、そうでしょうか。

 

 

 

昔、
水泳教室で子どもたちを教えていたことがあります。

 

その中で見てきたのは、

 

長女・長男だからといって
責任感が強い子ばかりではないし、

 

次女・次男だからといって
要領がいい子ばかりでもない、

 

という、ごく当たり前のことでした。

 

 

 

もちろん、
そういう傾向が見えることは
あるのだと思います。

 

でもそれは、
生まれ順そのものというより、

 

その子が
どんな環境で育ち、
どんな役割を求められてきたか、

 

そうした積み重ねの方が
ずっと大きいのではないでしょうか。

 

 

 

それなのに、

 

「長女だから」
「末っ子だから」
「男の子だから」
「女の子だから」

 

そんな言葉で
人をひとくくりにしてしまうことが、
世の中には案外多いように思います。

 

 

 

しかも、
そう言われ続けることで、

 

本当はそうでなくても
その役割を背負ってしまうこともある。

 

 

 

猫と暮らしていても、
同じことを感じることがあります。

 

「この子は神経質」
「この子はわがまま」
「この子は甘えん坊」

 

そんなふうに
言葉をつけたくなることはあるけれど、

 

その奥には
その子の理由や、
その子の世界があるのだと思うのです。

 

 

 

傾向を知ることは、
悪いことではないと思います。

 

でも、

 

“分かったつもりになること”と
“その存在をちゃんと見ること”は
きっと、別のこと。

 

 

 

目の前のその子を、
目の前のその人を、

 

こちらの持つ言葉や型ではなく、
その存在として見られているだろうか。

 

そんなことを、
時々、自分にも問いかけたくなります。

 

 

 

寄り添う、ということ

 

 

“寄り添う”とは何だろう。
 
そんなことを、考えていました。
 
 
誰でも、 経験したことのないものは 本当の意味では分からないのだと思います。
 
 
同じ出来事が起きたとしても、 感じ方は人それぞれですし、 まったく同じ痛みを知ることは きっとできません。
 
 
それでも、
 
だからこそ大切なのは、
 
自分ごととして、相手の氣持ちを想像すること。
 
 
「分からない」で終わらせず、
分からないなりに、 その人の立場に心を向けてみること。
 
 
完全に理解することはできなくても、
 
“理解しようとする姿勢”
“受け止めようとする姿勢”
 
そこに、 寄り添うということの本質が あるのかもしれません。
 
 
きっと人は、
 
「全部わかってもらえた」と感じることよりも、
 
“分かろうとしてくれた” そのことに救われるのだと思います。
 
 
寄り添うとは、
 
同じ痛みを知っていることではなく、
 
知らない痛みにも、 想像を向けることなのかもしれません。