「長女だからしっかり者」って、本当にそう?

 

 

 

「長女だからしっかりしてるよね」
「次女は要領がいいよね」

 

 

そんな言葉を聞くたびに、
私は少し違和感を覚えます。

 

 

本当に、そうでしょうか。

 

 

 

昔、
水泳教室で子どもたちを教えていたことがあります。

 

その中で見てきたのは、

 

長女・長男だからといって
責任感が強い子ばかりではないし、

 

次女・次男だからといって
要領がいい子ばかりでもない、

 

という、ごく当たり前のことでした。

 

 

 

もちろん、
そういう傾向が見えることは
あるのだと思います。

 

でもそれは、
生まれ順そのものというより、

 

その子が
どんな環境で育ち、
どんな役割を求められてきたか、

 

そうした積み重ねの方が
ずっと大きいのではないでしょうか。

 

 

 

それなのに、

 

「長女だから」
「末っ子だから」
「男の子だから」
「女の子だから」

 

そんな言葉で
人をひとくくりにしてしまうことが、
世の中には案外多いように思います。

 

 

 

しかも、
そう言われ続けることで、

 

本当はそうでなくても
その役割を背負ってしまうこともある。

 

 

 

猫と暮らしていても、
同じことを感じることがあります。

 

「この子は神経質」
「この子はわがまま」
「この子は甘えん坊」

 

そんなふうに
言葉をつけたくなることはあるけれど、

 

その奥には
その子の理由や、
その子の世界があるのだと思うのです。

 

 

 

傾向を知ることは、
悪いことではないと思います。

 

でも、

 

“分かったつもりになること”と
“その存在をちゃんと見ること”は
きっと、別のこと。

 

 

 

目の前のその子を、
目の前のその人を、

 

こちらの持つ言葉や型ではなく、
その存在として見られているだろうか。

 

そんなことを、
時々、自分にも問いかけたくなります。

 

 

 

寄り添う、ということ

 

 

“寄り添う”とは何だろう。
 
そんなことを、考えていました。
 
 
誰でも、 経験したことのないものは 本当の意味では分からないのだと思います。
 
 
同じ出来事が起きたとしても、 感じ方は人それぞれですし、 まったく同じ痛みを知ることは きっとできません。
 
 
それでも、
 
だからこそ大切なのは、
 
自分ごととして、相手の氣持ちを想像すること。
 
 
「分からない」で終わらせず、
分からないなりに、 その人の立場に心を向けてみること。
 
 
完全に理解することはできなくても、
 
“理解しようとする姿勢”
“受け止めようとする姿勢”
 
そこに、 寄り添うということの本質が あるのかもしれません。
 
 
きっと人は、
 
「全部わかってもらえた」と感じることよりも、
 
“分かろうとしてくれた” そのことに救われるのだと思います。
 
 
寄り添うとは、
 
同じ痛みを知っていることではなく、
 
知らない痛みにも、 想像を向けることなのかもしれません。
 
 

 

休んでみて、わかったこと
 
 
体調をくずして、
ブログを1週間お休みしました。
こんなに間が空いたのは、
ずいぶん久しぶりかもしれません。
今日は【塩とつながる日】。
そろそろ、また書いてみようかなと思えました。
 
 
今回の不調の中で、
あらためて思ったことがあります。
それは「コレさえあれば大丈夫」は
無いな、ということ。
そういうものがお守りになることは
ありますけどね。
 
 
たとえば、
カルシウムだけ摂れば骨が強くなるわけでは
ないように、
身体と心はいつだって、
いろんなものが関わり合って
バランスを取っています。
 
 
塩もそう。
水もそう。
休むことも、眠ることも、
安心することもそう。
 
 
今回の私は、
病院には行かず、
市販薬と、塩うがいと、
三年番茶と、ひたすら眠ること。
それを繰り返していました。
 
 
子どもの頃から身近にあった
塩うがいと番茶。
今回あらためて、
「ああ、こういうものに安心してきたんだな」
と思いました。
 
 
自分の中で起きていることを
これまでの知識に当てはめることより
ホッとできる時間が何よりの安心。
 
 
不調の中で、
何か意味を見つけようとしても、
痛いときは痛いし、つらいものはつらい。
 
 
体調不良は、
今とこれまでを悲観せず、
これからを不安で満たすのではなく、
“今の自分”を、ただ今ここに置いておくだけ
でいい時間、
そんなふうに思いました。
 
 
そしてもうひとつ。
ブログを1週間休んでも、
焦らなかった自分がいました。
 
 
前ならきっと、
順位や更新頻度を氣にしていたと思います。
でも今回は、
ただ「何もしない」と思えた。
というより、何もする氣にならなかったのだ
けれど。
 
 
毎日続けることも大切だけれど、
続けてもいいし、続けなくてもいい、
今の私は、そのくらいでいいのかもしれません。
 
 
これからは、
“毎日書かなきゃ”ではなく、
書きたいときに、
ちゃんと自分の言葉で書く。
そんな形でもいいのかなと思っています。
 
 
整えることは、
何かをどうこうしようとするのではなく、
今の自分にとっての心地よさに、
ただ氣づくことなのかも知れません。
 
 
 
今日も、塩とつながりながら。

 

 

 

「良い」「悪い」の、その前に

 

 

 


判断の前にあるもの

 

 

 

😺

私は、どう感じている?

 


 

 

「良いこと」「悪いこと」って、何だろう。

 

 

 

「良いこと」をしつづけても、
それが自分にとって辛く苦しいことなら、
それは本当に“良いこと”なのだろうか。

 

 

 

「悪いこと」をしつづけても、
それが自分にとって嬉しくて楽しいことなら、
それは本当に“悪いこと”なのだろうか。

 

 

 

「良い」「悪い」は、
あとからつけられる“結果”のようなもの

かもしれません。

 

 

 

そして、それは
人によっても、
そのときどきでも、
変わってしまうものでもある。

 

 

 

迷ったとき、

正しさを探す前に、
ひとつだけ確かめたいことがあります。

 

 

 

「私は、どう感じているのか」

 

 

 

その感覚に触れたうえで、

「私はこう思う。だから、こうする。」

そう選べたとき、
自分の中が静かに整う氣がするのです。

 

 

 

猫たちは、
「良い」「悪い」で動いているのではなくて、
ただ、そのときの自分に正直に生きています。

 

 

 

私たちもときどき、
その“判断の前”に戻ってみてもいいのかも

しれませんね。

 

 

 

 

「どれが正しいの?」と迷ったときに

 

 

 

健康について発信している人、たくさんいますよね。
 
 
 
食べるものに氣をつかっていて、
「〇〇は絶対やめて」と伝えている人もいれば、
それに対して「それは違う」と言っている人もいる。
 
 
 
それを見ていると、
お互いさまだなぁ、と思うのです。
 
 
 
きっと、どの人も
自分がいいと思ったことを伝えているだけ。
だからこそ、
「どっちが本当なの?」と迷ってしまう人が、
いちばん苦しくなってしまうのかもしれません。
 
 
 
たとえば、塩のことでも。
 
 
 
岩塩がいい、という人もいれば、
海塩がいい、という人もいる。
 
 
 
どちらが正しいのか、ではなくて、
自分に合うかどうか。
 
 
 
私は、そこに尽きるのだと思います。
 
 
 
一時期、はちみつが身体にいいと聞いて、
いくつか揃えようとしたこともありました。
 
 
 
でも、続きませんでした。
 
 
 
症状に応じて選ぶには、
種類も増えるし、負担も大きくなる。
 
 
 
それに、一度にいろいろ取り入れることは、
私には難しかったのです。
 
 
 
結局、
何でも「偏り過ぎるとどうだろう」と思うのです。
 
 
 
どんなに良いと言われているものでも、
それに振り回されてしまったら、
本来の意味から離れてしまう。
 
 
 
そして、やっぱり感じるのは、
元になるものをおろそかにすると、
巡りにくくなる、ということ。
 
 
 
私にとっては、
天然塩と水。
 
 
 
ここが整っていないと、
他のものをいくら足しても、
うまく巡らないように感じています。
 
 
 
だからこそ、私はこれからも、
天然塩と水を大切にしていきたいと思っています。
 
 
 
鵜呑みにしないこと。
自分の感覚を信頼すること。
 
 
 
それを手にしたとき、
そのことを思ったとき、
心が軽くなる方を選ぶ。
 
 
 
そして、時間が経てば、
良かったものが、そうでなくなるときもある
かもしれません。
 
 
 
でも、それまでが良かったのなら、
それもまた、本当のこと。
 
 
 
調子が崩れたときに、違和感を覚えたときに、
はじめて見えてくることもあります。
 
 
 
そのときに、どうするか。
 
 
 
自分が選んできたことが、今の自分をつくって
いる。
 
 
 
だからこそ、これからをどうしていくか。
 
 
 
身体も、心も、
 
いまの自分に戻って、
また選んでいけばいいのだと思います。