の日記
今日は昼ごろ、ふみから「ふみふみブログ書いてみた~やだったら教えてね😭」という感じのLINEが届いたので、見てみると、この一個前に上がっている、僕をかばう内容のものだった。
ふみが、僕がのびのびと書きものができることを願ってくれていることが、とてもありがたく感じた。
たしかに僕は以前、個人のブログで、配慮がないように思われるコメントをいろいろ書き込まれてそれに傷つき、今はほとんどブログを書かない状況になっている。
僕のブログが「炎上」のような状態になったのは、それはそれで僕の書きかたなどにも原因はあったと思う。僕自身も、僕が書いたことに刺激を受ける人の感情を考慮していない部分もあったかもしれない。
また、僕自身がそういう批判に対して敏感だったり脆弱なところがあって、そういう意見コメントの言い回しや言葉の使い方から、僕に対する「否定」を過剰に感じてしまったというところもあると思う。
そして、特に個人ブログでは、想定される批判にあらかじめ反論したり自己弁護したりということを日常的にしていると、だんだん批判される怖さでびくびくしながら書くことしかできなくなり、結果防衛的な雰囲気の記事しかできなくなって、それが悪循環を招いていたところもあったようにも思う。
しかし、実は今日も知り合いと話していたのだが、もしかしたら、僕のブログに対して批判的な雰囲気のコメントが付きやすいのは、僕のブログの特性上やむをえないことだったのかもしれない。
例えば、ふみは前の記事で、こういってくれている。
だいちゃんが取り上げる話題は、色んな人がさまざまな意見を持ちやすいもので、個人的なテーマを超えたものがけっこうあるから、私のようにごくごく個人的なテーマに絞られたものとは対照的。だからこそ、意見を持った人たちが、だいちゃんの気持ちを考えずに、文章を丁寧に読みもせずにやいやい言ってくることが容易かったのかもしれないと想像したりする。
たしかに僕の記事は、個人的に考えたことを書いているのだけども、感覚的というより論理的で、比較的言いたいことが明確にあるものが多い。しかも、丁寧に読めば、ある程度一貫した主張を読み取ることができるようなものになっている。だからこそ、それこそ千差万別の意見を持つ人たちが見た際、なかにはそこに書いてあることが「引っかかる」人もいるのだろう。
近ごろ相談した人は次のように言っていたが、こういった考えもかなり納得のいくものでもある。
しょせん、他者の考えと自分の考えは折り合わないものだ、というある種の諦めみたいなのを持ったうえで人と関わることができると良いのかもしれないですね。それこそ打率と同じで、家族や気の合う人でも3割ぐらい分かり合えれば良いほうですよ。他人だったら1割ぐらいじゃないですか。
僕の個人ブログのメインテーマは「生きる意味」になっており、僕はこのテーマに関してはもう20年近く考え続けているのだが、正直それが、僕がどれだけがんばって考えたものだとか、どれだけがんばってたどり着いた考えであったとしても、それはもう僕個人の考えであり僕個人の生き方なので、つつましやかに、分かり合える人と、それなりの、場に見合った話をするにとどめたほうがよいのかもしれない、と、近ごろはそんなふうに思っていた。
僕は、ブログでは基本的に自分の個人的な考えを書いていて、ほかの誰かの生きかたや意見を否定する意図は、少なくとも積極的な形ではないつもりなのだが、これはどんな意見に関しても言えることではあるが、ある意見を述べる際には、それとは違う意見を持っている人や、それとは違う生き方をしている人を、間接的に否定することになりうる。それはどんな意見であっても避けることは難しいだろう。
だから、ブログも含め、なにか意見を述べるときは、その意見がそれ自体として意味すること以上に、それが誰に届くか、誰のどんな反応を誘発するものでありえるかが、コミュニケーションという観点からは大事になってくるとは思われる。
そして、僕がなにかを発信した際、反応として「よい」ものが得られた実感があったことは、少なくともアメブロでは、ほとんどなかった。「よい反応が得られた実感」とは、僕の書いたものが誰かのためになっているとか、誰かの共感を呼んでいるとか、誰かの癒しになっている、といった実感である。
僕は個人ブログで、基本的には僕個人の悩みと、悩みに向き合いながら考えたことをリアルタイムで書きつづっていた。しかし、それにつくコメントは、ほとんど常に、「(しばしば「上から目線」と言っていいような)アドバイス」や、「反対意見」や、「僕の生き方や態度を否定するようなもの」だったように思う。
僕がなにを書いても共感も理解もされない、という実感と、リアルでふみをはじめとした理解者を得るという経験は、自然に僕を考えたことを公開するということから遠ざけた。
だが、今日、ふみが僕を擁護するような文章を書いてくれたことと、それと同時に友人から励みになる意見をもらったことで、少し違う視点からこのことを見ることができたようにも思った。
例えば近ごろ、「生きる意味」を「発言小町」というQ&Aサイトで検索していて、その質問と回答を見ていたところ、僕のブログ上だとか、僕がなんらかの場で悩みを語った際に起こっていたことと似たような状況になっていることに気づいた。
例えば比較的典型的な例として、この質問を挙げることができる。
「やりたいことがなく虚しい」(発言小町に寄せられた質問より)
この質問とそれに対する回答を見てみても、質問者と回答者の間にある種の「温度差」のようなものがあるように思う。
というのは、質問者はほんとうに悩んで真剣に質問しているのだが、回答者は正直あまり考えていないというか、むしろただ「正論を振りかざしてマウントを取りたいだけ」なのではないか、そう見なしても問題ないのではないか、と言ってもいいような印象を受ける。
これだけ「自分たちの正しさをまったく疑わない」ように見えるような人たちから、このように回答することがほんとうに質問者にとってよいのかどうか非常に怪しいような、質問者ならばそのぐらいの正論はとっくに検討しているだろうと思われるようなコメント、しかも質問者の考えや生き方を非難し否定するようなニュアンスを伴ったものを大量にもらったうえで、最後の返信で真摯に感謝の言葉を並べる質問者を見ると、ネットのQ&Aサイトというものが非常に不思議な場のように感じざるをえない。
しかし、このことを今日友人に話して、その友人と一緒に「自分だったらこの質問者にどう返信するだろうか」と考えてみたとき、そこに新たな光が当たったように感じた。
つまり、このような質問は、ほんとうにその問題についてしっかり考え、自らも悩んできたような人は、容易に回答できないようなものなのである。
僕は、この質問に対する回答を自分で考えてみた際、この質問者がこの問題にほんとうに悩んでいるならば、僕はこの限られた回答欄でこの質問者に対してどのような「力になるような回答」ができるだろうかと考えると、これは非常に難しいことであり、むしろ、ここで単発のメッセージを送ることを通してこの質問者の力になろうとか、あわよくばこの質問者の問題を解決しようなどということは、非常におこがましいことなのではないかと思われた。
おそらく、思慮のある人ならばこのことに、ある程度気づくことができるだろう。人がほんとうに悩んでいるとき、その人の力になるということは生半可なことではない。なにか力になること、ここで言うならば適切なコメントが可能だとしても、少なくともそれにはある程度のキャパシティを割いてそのことに取り組む必要があるようにも思われる。
そしてむしろ、ほんとうに悩んでいる人に対して安易な即席のコメントができる人たちというのは、その悩みを自らの真剣な問題として引き受ける気がない人たちなのである。だから、こういう場で表面化するコメントは、真剣で十分な検討を経てい「ない」ものが大半にならざるを得ない。これが、ネットの掲示板での見ず知らずの人に対する相談が、相談として有効なものにならない理由であり、そしてネットのQ&Aサイトに書き込まれた匿名のコメントの多くが、無責任で乱暴なものにならざるを得ないからくりなのだろうと思われる。
しかしそれならば、それを踏まえたうえで、僕はネットでなにができるだろうか。
先述のように、僕は20年ほどの間「生きる意味」の問いを問い続けてきた。それは個人的な問題としては、ふみをはじめとした周囲の支えもあって、現在は深刻で切迫したものではなくなっているが、今でもそれは僕の中では大事な問いであり続けている。
そして、これを問うてきた経験、そしてその中で体験してきた多くの出来事、考えてきた多くのこと、そのある種の「成果」は、なんらかの形で僕の中に存在しており、そしてそれを必要とする人はたしかにどこかにいるのではないかと思う。
このことは、今日話した友人もそう言っていた。僕はけっこう自己否定的なところがあり、自尊心や自信も少ないところがあるので、一人でこれを言い切ることには勇気が要る。しかし、友人に背中を押してもらって、はっきりと言うことにしたい。僕の経験から紡がれる言葉を必要とする人は、きっとどこかにいる。
この問いが深刻なものではなくなってきた近ごろは、僕のテーマは、この問題と取り組んできた経験それ自体になんらかの意味を与えることだった。そして、前のふみの記録は、このような僕の背中をなんらかの意味で押してくれるものだ。
僕がその場をどこに求めるかは、まだはっきりとはわからない。ブログにするかもしれないし、YouTubeやnoteといったほかの媒体にするかもしれない。しかし、それを応援してくれる人は身近にいるということだけは、今ははっきりとしている。
すぐにとは言わない。もちろん日々の仕事もあるし、生活の中でいろいろなことや、関わっている人たちを大事にしていきたい。しかし、いつか、それを形にしたいと、今は思っている。