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みたみわれ 皇室と国民(36)

手に取る屠蘇も••••

皇學館大学教授 松浦光修先生の

メールマガジンを紹介致します。

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※これは過去のブログ記事を転用しています。

手に取る屠蘇も••••

(『解脱』令和3年12月)

 平成二十八年八月、天皇陛下(現在の上皇陛下)は、「象徴としてのお務めについての天皇陛下の御言葉」を発せられ、そこから、御譲位へ向けての動きがはじまります。

 平成三十一年四月、新しい年号は「令和」と発表され、翌月の五月一日、今上陛下が践祚され、令和の御代がはじまりました。

 同年十月二十二日には、皇居で即位礼正殿の儀が行われ、新帝陛下が高御座(たかみくら)にのぼられ、その帳がひらかれたとたん、それまで、どしゃぶりであった雨がピタリとやみ、さらには東京に美しい虹までかかりました。

 まるで奇跡を見たような思いがしたことは、今も記憶に新しいところです。

 同年十一月十四・十五日には、大嘗祭も無事におわり、それによって、「御代がわり」にともなう一連の儀式は、ほぼ終了しました。

 わずか二年ほど前のことですが、私にはそれが、遠い昔のことのように思われる時があります。

 それは、中華人民共和国の武漢から感染が拡大した未知の感染症が、令和二年の年頭から、日本にも蔓延しはじめたせいでしょう。

 それ以後、その感染症は全世界の人々に、百年に一度ともいわれるほどの甚大な被害をもたらし、まだ完全には収束していません。

 政治も経済も生活も文化も、いろいろなことがそれ以前とは、大きく変わってしまいました。

 今上陛下は、深く感染の拡大を憂えられ、令和二年四月から、感染症の専門家を招いて、たびたび御進講を受けられています。

もしも自然災害ならば、陛下は、苦難に直面している国民のもとにおもむかれ、間近で激励をされたでしょうが、ことが感染症ですから、それはできません。

 

 たぶん陛下は、それができないことに、もどかしい思いをされつつ、今も日々、賢所の神々に、国民の平安を祈りつづけていらっしゃるはずです。

 かつて戦国時代の後奈良天皇は、疫病の流行を憂えて、「般若心経」を写経し、神社仏閣に奉納されましたが、そのような大御心は、今上陛下も変わりません。

 そのことは、令和三年八月十五日に行われた戦没者追悼式の、お言葉からもわかります。そのさい陛下は、「感染状況」について、「私たち皆が、なお一層心を一つにし、力をあわせてこの困難を乗り越え、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを、心から願います」と、おっしゃっています。

 幕末の志士・吉田松陰は、こういう和歌を詠んでいます。

「九重(ここのえ)の  悩む御心  思ほえば  手に取る屠蘇(とそ)も 呑みえざるなり(「己未文稿」)。

歌意は、こうです。

「国難を前にして、御心を悩ませられている天皇(当時は孝明天皇)の御心のうちを思うと、元旦だからといって、お屠蘇を手にとっても、私は、お気の毒でならず、とても、それを飲むことができません」。

 今後もわが国に、どのような困難が襲ってくるか、それはわかりませんが、私は「日本は天皇の祈りに守られている」と信じています。

 ですから、私たち日本人は、今後も陛下のもと、心を一つにし、日本人らしさを失わずに生きていけば、たとえどのような困難が襲って来ようと、きっとそれを、雄々しく、乗り越えていけるにちがいありません。

(おわり)

爺さん追伸:

後奈良天皇

 慈悲深く、天文9年(1540年)6月、疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉。窃写般若心経一巻於金字、(中略)庶幾虖為疾病之妙薬 

(大意:このたび起きた大病で大変な数の人々が亡くなってしまった。

 人々の父母であろうとしても自分の徳ではそれができない。大いに心が痛む。密かに金字で般若心経を写した。

(略)これが人々に幾ばくかでも疫病の妙薬になってくれればと切に願っている)」との悲痛な自省の言を添えている。

 この写経は大覚寺と醍醐寺のほか、24か国の一宮に納められたと伝わっている。三河国・伊豆国・甲斐国・安房国・越後国・周防国・肥後国のものが現存している。

 

おわり。

* *

爺さん追記:

 

 吉田 松陰(よしだ しょういん、1830年9月20日-1859年11月21日)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。

 

 吉田松陰の辞世の句は

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂


「この身はたとえ武蔵野の地に朽ち果てようとも、私の大和魂は、国を守るためにこの世にとどまり続けていたいものだ。」

 松陰は最後の最後まで、門下生たちに自分の思いを伝えようと努めました。

伝馬町の獄で刑死する前々日から前日に書き上げた『留魂録』は、門下生への遺言書というべきもの。この歌は、『留魂録』の冒頭に書かれた歌です。

 

吾れ今国の為に死す、
死して君親(くんしん)に負(そむ)かず。
悠々たり天地の事、
鑑照(かんしょう)、名神(めいしん)に在り


「今、私は国のために命を捧げる。この死は、主君や親に背くものではない。
 

 悠久に続く天地のことを思う時、神々よ、どうぞ私の国を憂う誠の思いをご照覧ください。」

死刑判決を言い渡され、評定所を出ていく際、松陰が吟じた漢詩です。


 吟じた漢詩を、長州藩士として立ち会った小幡高政が書きとったものといわれています。

松陰はまず、『留魂録』の冒頭の歌「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」を吟じ、その後にこの漢詩を吟じました。

               吉田松陰 像

後奈良天皇像

同写経

みたみわれ 皇室と国民 の36回のご紹介はこれで終了しました。長いお付き合いありがとうございました。