僕が大学を卒業してから医療職に就くまでの経歴は以下の通りです。
① コンピュータ会社に就職
② 体外診断薬メーカーへ転職
③ 新規事業に伴う別会社への転職〜退職
④ 紆余曲折の黒歴史
⑤ 病院へ転職
今回は、病院勤務となった⑤以降の話です。
日々の業務のひとつの経費精算処理。
職員の物品購入、研修会参加、出張にかかる旅費交通費などの内容の確認と出金処理です。
さまざまな職種から精算書が上がってきます。
そこで、気になったのが言語聴覚士というリハビリ職でした。
「言葉と聴こえの士」って?
ちょっとした謎でした。
当時、僕らの部署が中心となって、地域公民館の「高齢者の会」を対象とした「健康教室」を病院に於いて開催していました。
隔月第三土曜日の午前中に院内の研修室を使った催しです。
本来であれば、こういったことは、地域連携室の仕事なのでしょうが、当時は未だそのような部署はなくて「よろずや」だった僕らの部署の担当だったのです。
毎回のテーマとスケジュールは、以下のように決めていました。
栄養教室・・・・・・講師:管理栄養士
転倒予防体操・・・・講師:理学療法士
健康測定・・・・・・外来職員
インフルエンザ予防・講師:看護師
テーマに沿った院内の専門職に講師をお願いするのです。
高齢者の会及び関係各所との連絡調整
会場設営と片付け
当日の司会進行
が僕の仕事でした。
そんななか、言語聴覚士のKさんが担当講師で「失語症について」という話をする回がありました。
気になる、言語聴覚士、のお話しです。
テーマを見て、最初は
失語症って、病気が原因で上手く話せなくなることだろう
程度のことを考えていました。
そして、実際の話の内容は…
冒頭が、
「あなたが、例えばアラビア語圏の街中を歩いたとしたらどんな気持ちになりますか?」
といったような内容だったと記憶しています。
街中で人の話す内容が理解できないし、自分も話せない、看板の文字を見ても何と書いてあるか解らない…そんな状況を説明していました。
「ん、なに、それ」
意表をつかれた僕は、一気に話に引き込まれたのです。
話は失語症の症状だけでなく、失語症者の気持ちに寄り添った内容にまで及んでいました。
それまで理学療法士の『身体的な障がい』の話は聴いていました。
言語聴覚士の話は、決定的に違っていました。
扱うのは『目に見えない障がい』だったのです。
そこに強い関心を持ちました。
もっとも、当時の自分は、話を聴いて、失語症のことを
・理解はできるが話せない=運動性失語
・話せるが理解していない=感覚性失語
・理解も話もできない =全失語
といった乱暴な捉え方しかできていませんでしたが。
脳の損傷部位によって、症状が異なることや適切な介入を行えば、ある程度の改善が見込まれる事など。
自分にとって興味深い話だったのです。
話しを聴きながら、言語聴覚士は、ある種、脳の専門家でもあるのかな?とすら思えていました。(現在はそう思っています)
健康教室が終わり、後片付けをして、残っていた仕事を済ませ「さあ、帰ろう」と廊下を歩いていると、言語室に電気が灯っていました。
薄暗く静まり返った真冬の土曜日の夕方です。
その時の印象は強く残っています。
健康教室を終えた達成感と疲労感混じりの中、冷たい廊下の先の言語室の灯は、まるで山小屋の灯のように思えました。
「Kさん、まだ残っているな」
「よし」
と、自動販売機で缶コーヒーを買って、
「今日はおつかれさまでした」
と言語室の扉を開けました。
このことがきっかけで、言語聴覚士Kさんと急接近して、一緒にお酒を飲むほどの仲になったのです。
しかし、残念ながら、その数ヶ月後にお別れする羽目に。
彼は言語聴覚士育成の為の教師の道を選び、退職していったのです。
沖縄の男女参画センタービルで開催された言語聴覚士学会にて。
3Fの研修室には
マイク片手に研究発表のプレゼンをしている僕がいました。
発表テーマは「高齢者の低栄養と嚥下障害の関連性」について
共同研究者として名を連ね、研究指導を行なってくれた言語聴覚士Kさんは、その時既に大学で教鞭をとっている身。
そして、僕は言語聴覚士として、その場に立っていたのです。
そんな僕の発表を、会場の片隅で暖かく身守ってくれているKさんを見つけた時、込み上げてくる熱いものがありました。
まさか、そんな未来が待っていようとは。
まるでドラマのようですね。
感無量です。
振り返れば、いまから20年近く前に、職場で聴いた言語聴覚士の話に端を発したストーリー。
それは、沖縄まで、それ以降も、現在まで、しっかり繋がっています。