私はたびたび自らを厭世家(ミザントロープ)と呼びます。
しかし、たまに厭世哲学に対する誤った観念を持った人々に会ったりしますね。
一番普遍的な二つの誤解を紹介しようとすると、
1.”大部分厭世家たちは個人としての人が嫌い。”
普通はそうではないです。つまり、人間関係において相手を嫌やがるよりは、その関係自体を嫌やがる方です。
2.”厭世家たちは人が嫌だから他人をちょうど対する傾向がある。”
そうじゃありません。 もちろんこんな厭世家もあるが、多くの厭世家たちは生においてヒューマンリレーションズという概念、その自体を憎悪して悲観的に思います。だから同じ人間関係・人生を暮す全ての人々をあわれに思って、自分のような境遇にいる同僚人間たちに憐愍を抱くから、むしろ相手を同情して正しく対しようと努力する方です。(跡でもっと説明します。)
3.”厭世家たちは大部分ひとりぽっちだ。”
これも真実ではないです。長い説明代わりイタリアの有名な詩人、ジャコモ・レオパルディ(Giacomo Leopardi)の言葉を借ります:
”真正な厭世家は孤独ではない群衆の中にある;人類に対する本当の憎悪は、哲学ではない人生経験から始まるからだ。”
。。。
more on misanthropy...
ソクラテスは "厭世と廉理論は似ている理由から始まる"と言いました。
また彼は ”特別な ’技術’(τχνη)なしに他人が絶対的に率直・論理的だと思って彼を完壁に信じている途中、実際ではそうではないという事を悟るようになって、そういう人間関係が繰り返されれば彼は厭世家になることだ”と言ったし、"技術を持って人間関係に近付いたら、極度で善良とか極度で悪漢人は少数であるだけであり、残りは皆このような両極の中に位するという事が分かったはずだ”と付け加えたんです。
こんなにソクラテスは厭世と廉理論を同じように思って、哲学的悲観と厭世をはっきり分離しようと思ったんです。それならソクラテスは他人との関係で傷ついた事は、最初に絶対的に善良な人は極少数に過ぎないという事を自覚できなかった自分の無知さ・過ちと強調しているのでありましょうか?
もちろん他人が自分に100%率直で善良に対するように願っている途中裏切られたら "全部人を信じ過ぎた純粋な君のせいだ”という話を聞きますぜ。しかし人間関係で絶対的な善良さを望む人がいましょうか?今これを読んでいる貴方は他人との関係(日常的・事務的・親密だか構わずに)で相手が絶対的に善良で率直することだけを望むんですか?相手がキリストでガンジーになるように望むんですか?
少なくとも私はそうではないです。私はソクラテスが言う”技術ない人”ではないにもかかわらずヒューマンリレーションズによって幾多の傷ついたし, その結果そういう概念自体が嫌いです。
普通人々は他人との関係で、どんな見えない”社会的契約”みたいな物が存在して、そういう黙認された契約の同意のもとに相互作用をすると思います。結果的に、人間関係では黙認で来る位の悪が存在するって事を分かっているし、また合理的な位の善良さを望むのが当たり前だと私は思います。誰かがその見えない契約を壊し、相手が彼に期待する最小限の品位も持っていなかったら、それによって相手は傷つくようになって、そんな過程が繰り返されながら被害者は契約自体を否定・不信する厭世家になることだと思います。
。。。
しかし人が嫌いだと言って人をちょうど対することはだめだと思います。だから自分を厭世家と呼ぶ大部分の人々は比較的、正常な人間関係(もちろん残っている人間関係)を維持しているのです。厭世家として自分以外の皆を無視して甚だしくは見下す態度は、厭世哲学を理解しようとする理由を提供するのではなく、厭世哲学が存在する根本を提供するのです。
つまり、’私をちょうど対する人間たちが嫌いだから、私は人間が嫌いだ。だから私は私が嫌やがる人間たちをちょうど対する’と言ったら、自分が最初に人間が嫌になった理由を本人自らが提供するようになる、あっけない逆説が発生します。だから結局、人が嫌いで人類を嫌やがるという論理自体と行き違うようになります。そんなエゴイスチックな形態の厭世はどんな意味もない卑怯な偽善であるだけだと思います。
アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)が言ったように、この憎い人類自体は一つの間違いなので、そんな間違いを生きて行くためにじたばたする哀れな同僚人間を同情で対しなきゃならないんです。
しかし、たまに厭世哲学に対する誤った観念を持った人々に会ったりしますね。
一番普遍的な二つの誤解を紹介しようとすると、
1.”大部分厭世家たちは個人としての人が嫌い。”
普通はそうではないです。つまり、人間関係において相手を嫌やがるよりは、その関係自体を嫌やがる方です。
2.”厭世家たちは人が嫌だから他人をちょうど対する傾向がある。”
そうじゃありません。 もちろんこんな厭世家もあるが、多くの厭世家たちは生においてヒューマンリレーションズという概念、その自体を憎悪して悲観的に思います。だから同じ人間関係・人生を暮す全ての人々をあわれに思って、自分のような境遇にいる同僚人間たちに憐愍を抱くから、むしろ相手を同情して正しく対しようと努力する方です。(跡でもっと説明します。)
3.”厭世家たちは大部分ひとりぽっちだ。”
これも真実ではないです。長い説明代わりイタリアの有名な詩人、ジャコモ・レオパルディ(Giacomo Leopardi)の言葉を借ります:
”真正な厭世家は孤独ではない群衆の中にある;人類に対する本当の憎悪は、哲学ではない人生経験から始まるからだ。”
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ソクラテスは "厭世と廉理論は似ている理由から始まる"と言いました。
また彼は ”特別な ’技術’(τχνη)なしに他人が絶対的に率直・論理的だと思って彼を完壁に信じている途中、実際ではそうではないという事を悟るようになって、そういう人間関係が繰り返されれば彼は厭世家になることだ”と言ったし、"技術を持って人間関係に近付いたら、極度で善良とか極度で悪漢人は少数であるだけであり、残りは皆このような両極の中に位するという事が分かったはずだ”と付け加えたんです。
こんなにソクラテスは厭世と廉理論を同じように思って、哲学的悲観と厭世をはっきり分離しようと思ったんです。それならソクラテスは他人との関係で傷ついた事は、最初に絶対的に善良な人は極少数に過ぎないという事を自覚できなかった自分の無知さ・過ちと強調しているのでありましょうか?
もちろん他人が自分に100%率直で善良に対するように願っている途中裏切られたら "全部人を信じ過ぎた純粋な君のせいだ”という話を聞きますぜ。しかし人間関係で絶対的な善良さを望む人がいましょうか?今これを読んでいる貴方は他人との関係(日常的・事務的・親密だか構わずに)で相手が絶対的に善良で率直することだけを望むんですか?相手がキリストでガンジーになるように望むんですか?
少なくとも私はそうではないです。私はソクラテスが言う”技術ない人”ではないにもかかわらずヒューマンリレーションズによって幾多の傷ついたし, その結果そういう概念自体が嫌いです。
普通人々は他人との関係で、どんな見えない”社会的契約”みたいな物が存在して、そういう黙認された契約の同意のもとに相互作用をすると思います。結果的に、人間関係では黙認で来る位の悪が存在するって事を分かっているし、また合理的な位の善良さを望むのが当たり前だと私は思います。誰かがその見えない契約を壊し、相手が彼に期待する最小限の品位も持っていなかったら、それによって相手は傷つくようになって、そんな過程が繰り返されながら被害者は契約自体を否定・不信する厭世家になることだと思います。
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しかし人が嫌いだと言って人をちょうど対することはだめだと思います。だから自分を厭世家と呼ぶ大部分の人々は比較的、正常な人間関係(もちろん残っている人間関係)を維持しているのです。厭世家として自分以外の皆を無視して甚だしくは見下す態度は、厭世哲学を理解しようとする理由を提供するのではなく、厭世哲学が存在する根本を提供するのです。
つまり、’私をちょうど対する人間たちが嫌いだから、私は人間が嫌いだ。だから私は私が嫌やがる人間たちをちょうど対する’と言ったら、自分が最初に人間が嫌になった理由を本人自らが提供するようになる、あっけない逆説が発生します。だから結局、人が嫌いで人類を嫌やがるという論理自体と行き違うようになります。そんなエゴイスチックな形態の厭世はどんな意味もない卑怯な偽善であるだけだと思います。
アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)が言ったように、この憎い人類自体は一つの間違いなので、そんな間違いを生きて行くためにじたばたする哀れな同僚人間を同情で対しなきゃならないんです。