山田順『出版大崩壊』(文春新書)を読んで。
出版という行為そのものが曖昧になりつつあるあると、この本を読んで感じました。
一時期、流行したケータイ小説にも、同じことがいえますが、まず、著者と消費者の境界線といえるものがなくなりつつあることが一番の問題点だと思いました。
これは、電子書籍事業がポストモダンに見られる、データベース消費の構造モデルを基本にしているからでしょう。
著者が提示する大きな物語は、単なる要素の集合体として発信され、それらの要素を記号として記号として解釈した消費者が、二次創作物ともいうべき、新たな広告媒体を生み出し、それをインターネットを通じて拡散されていく。
この繰り返しが、今、現在の電子書籍事業の定型であり、限界であると感じました。
村上龍氏が、「歌うクジラ」を電子化して出版した際、音楽やアニメーションなどのコンテンツを付加したことが書かれていました。こういった紙面媒体では、展開できない表現を掲載できるというのは、電子書籍ならではの試みであり、利点と成り得るものではありますが、安易に、こういった出版商法を定着させると、書籍も、AKB48のCDと同じように、付加価値目当てのコンテンツに成り下がってしまう危険性もあります。出版社を通さずに、書籍を発行するということは、確かに手間が省けていいかもしれませんが、書籍に対する信憑性や、確かな裏づけを消費者が求めるやめの仲介役がなくなってしまうというのは、なかなかリスクが高いことだと思います。FacebookやTwitterなどで支持を集めたり、クラウドファンディングサービスを通して、パトロンを募り、紙の本を出版するという流れが出来つつあることに私は注目しています。
これは、amazonなどのプラットフォーム側がフォローする行為そのものが、「創作活動」として一般的に認識されつつあるということです。編集・校閲作業を担う出版サービスをソーシャルな場で立ち上げれば、ある程度のブランド効果が電子書籍にも付くと思います。
編集・校閲のソーシャルサービスがないということが不思議でなりません。
発信するだけで素人の作品が一つのコンテンツとして尊重されるプラットフォームが幾つも存在するにも関わらず、です。
一時期、ネット上で、作家の山田悠介氏の文章を添削し、ツッコミをいれることで笑いに昇華するという流れがあったことを思い出しました。当時、まだ新人で、文章もプロが構成したものとは思えなかった山田悠介氏。
彼の処女作「リアル鬼ごっこ」は、自費出版というかたちで発行されたものであり、紙媒体であるにも関わらず、校閲が甘かったため、形態としては、今の電子書籍に近いものを感じます。
文章は稚拙ですが、今までの小説になかった発想力の高い世界観で、中高生を中心に爆発的な人気を集め、売れっ子作家へと成長していきました。つまり、面白そうな作品や、話題性の高い作品には、その出来・不出来に関わらず、一般ユーザーなどが進んで校閲作業に乗り出すということです。ユーザーは、作品をより良くしたと思うファンから、ただ悪いところを叩いて楽しみたいアンチまでとピンキリですが、電子上のコミュニティの中だからこそ俯瞰視できる部分があるのもまた事実です。出版とは畑違いの仕事をしている人でも、書籍を出すという作業に携われる今、編集者も作家という枠組みを越えて、様々な才能と巡り会う自由を手にいれたと考えてみてはどうでしょうか。
この本の「おわりに」の章に、沢尻エリカの元・夫でハイパーメディアクリエイターの高城剛氏がその一例として登場しています。
ヴァーチャルなものが一般化されれば、リアルの価値が高まるという彼の持論は、今後、電子化されていくコンテンツが増えていくなかで、的を射たものとなっていくでしょう。
かたちを変えては消費されていくだけの、ジャンクフード的な小さな物語に、延命処置に似た可能性は電子書籍でいくらでも見出せますが、まとまった終わりを提示できる大きな物語は、紙書籍でなければ、まだ発信できないと思いました。
出版という行為そのものが曖昧になりつつあるあると、この本を読んで感じました。
一時期、流行したケータイ小説にも、同じことがいえますが、まず、著者と消費者の境界線といえるものがなくなりつつあることが一番の問題点だと思いました。
これは、電子書籍事業がポストモダンに見られる、データベース消費の構造モデルを基本にしているからでしょう。
著者が提示する大きな物語は、単なる要素の集合体として発信され、それらの要素を記号として記号として解釈した消費者が、二次創作物ともいうべき、新たな広告媒体を生み出し、それをインターネットを通じて拡散されていく。
この繰り返しが、今、現在の電子書籍事業の定型であり、限界であると感じました。
村上龍氏が、「歌うクジラ」を電子化して出版した際、音楽やアニメーションなどのコンテンツを付加したことが書かれていました。こういった紙面媒体では、展開できない表現を掲載できるというのは、電子書籍ならではの試みであり、利点と成り得るものではありますが、安易に、こういった出版商法を定着させると、書籍も、AKB48のCDと同じように、付加価値目当てのコンテンツに成り下がってしまう危険性もあります。出版社を通さずに、書籍を発行するということは、確かに手間が省けていいかもしれませんが、書籍に対する信憑性や、確かな裏づけを消費者が求めるやめの仲介役がなくなってしまうというのは、なかなかリスクが高いことだと思います。FacebookやTwitterなどで支持を集めたり、クラウドファンディングサービスを通して、パトロンを募り、紙の本を出版するという流れが出来つつあることに私は注目しています。
これは、amazonなどのプラットフォーム側がフォローする行為そのものが、「創作活動」として一般的に認識されつつあるということです。編集・校閲作業を担う出版サービスをソーシャルな場で立ち上げれば、ある程度のブランド効果が電子書籍にも付くと思います。
編集・校閲のソーシャルサービスがないということが不思議でなりません。
発信するだけで素人の作品が一つのコンテンツとして尊重されるプラットフォームが幾つも存在するにも関わらず、です。
一時期、ネット上で、作家の山田悠介氏の文章を添削し、ツッコミをいれることで笑いに昇華するという流れがあったことを思い出しました。当時、まだ新人で、文章もプロが構成したものとは思えなかった山田悠介氏。
彼の処女作「リアル鬼ごっこ」は、自費出版というかたちで発行されたものであり、紙媒体であるにも関わらず、校閲が甘かったため、形態としては、今の電子書籍に近いものを感じます。
文章は稚拙ですが、今までの小説になかった発想力の高い世界観で、中高生を中心に爆発的な人気を集め、売れっ子作家へと成長していきました。つまり、面白そうな作品や、話題性の高い作品には、その出来・不出来に関わらず、一般ユーザーなどが進んで校閲作業に乗り出すということです。ユーザーは、作品をより良くしたと思うファンから、ただ悪いところを叩いて楽しみたいアンチまでとピンキリですが、電子上のコミュニティの中だからこそ俯瞰視できる部分があるのもまた事実です。出版とは畑違いの仕事をしている人でも、書籍を出すという作業に携われる今、編集者も作家という枠組みを越えて、様々な才能と巡り会う自由を手にいれたと考えてみてはどうでしょうか。
この本の「おわりに」の章に、沢尻エリカの元・夫でハイパーメディアクリエイターの高城剛氏がその一例として登場しています。
ヴァーチャルなものが一般化されれば、リアルの価値が高まるという彼の持論は、今後、電子化されていくコンテンツが増えていくなかで、的を射たものとなっていくでしょう。
かたちを変えては消費されていくだけの、ジャンクフード的な小さな物語に、延命処置に似た可能性は電子書籍でいくらでも見出せますが、まとまった終わりを提示できる大きな物語は、紙書籍でなければ、まだ発信できないと思いました。








(その後、2年放置)


