おはようございます!
AYAMIですニコニコ


今日も日常生活での気づき・感じたことをアウトプットしていきますグッ




『会話は出来ているが、対話はできていない』



最近、朝井リョウさんの『正欲』を読んで
そして映画も観に行ったニヤリ



その中で
この言葉があった



今まで考えたことがなかった



コミュニケーションを行うためには“会話”が必要になるとは思ってた
たまに話をしていて会話が成り立っていない時がある



相手の人が話をして
こちらが質問をしようとしても
ずっと自分の話をしている人


質問をされて答えようとしているのに
そのまま自分の話をしている人




これは“会話”ができていないということである...タラー
と私は感じていた


対話とは何なんやろか?
会話と何が違うんだろうか?



調べてみる上差し





抜粋した内容を以降書く下差し


【平田オリザさんの言葉】

“会話”はライフスタイルや価値観が近い、親しい人同士のおしゃべり
いわゆる日常会話。
それに対し、“対話”とは、あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換
若しくは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるすりあわせである。

“わかり合っている”人とは会話で済むけど、“わかり合っていない”“伝わらない”人同士だと
対話になっている。

“対話”は自分の主張を相手に納得させる“対論=ディベート”とも違う
AとBの論理が擦り合わさり、Cという新しい概念を生み出すのが対話である。
対話の後には自分も相手も意見が変わるというのが前提。
変わることはネガティブなことではなく、むしろ新しい発見や出会いがある。



このことから会話は
周りから見ると上手くキャッチボールしているように見えるが
内側が本心がどうなのかは別であるんだと思った



本心を隠して上辺だけで話をしていることも会話



この中で
このようなことも書かれていた


対話において「伝える」という力はすごく必要



伝える力でもあるが
なんとか相手に伝えたい!という気持ちが必要である
それは自分も相手も共にそうだ



わかる人だけわかってもらえばいい
言ってもどうせわからないだろう
分かってほしいなんか思ってない
とか思って
伝えようとしないと
絶対に対話なんかできない



そして
何かを強制させるのではなく
自分の価値観を強要するのではなく
オタ以外の価値観が存在すること
そしてそれを共有すること(受け入れなくても受け入れてもいいが、存在することそのものを感じる)
それが対話であろう



『正欲』の中で出てきたあの言葉の意味が今わかってきた
そしてもっと深く感じてきた電球



対話をするこという事
対話ができる相手がいるということ
お互いにこの人となら対話ができるなと感じるということ
そういう相手がいるということ、そういう相手になれているということが
この世界に存在する意味にもなるのかと



心の本心を出すことができる
これがどんなに素晴らしいことかと
めっちゃ実感できた



そして
対話する為には
まずは自分がどのように感じているかを見せることが大事だと思った照れ